初代の苦労――44歳の死
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「伊藤初代」の記事における「初代の苦労――44歳の死」の解説
1936年(昭和11年)5月19日に次女・匡子が誕生し、同年8月19日に岩手県江刺郡岩谷堂にいる父・忠吉が66歳で死去した。1938年(昭和13年)9月24日に三男・靖郎が誕生した。その後1940年(昭和15年)に、夫・桜井五郎は山口県下松市の日立車輛(日立製作所笠戸事業所)に就職し、一家で下松に移住した。翌1941年(昭和16年)9月に三女・三千代が誕生し、1943年(昭和18年)2月に四男・周二が誕生した。初代は中林忠蔵との珠代と、桜井五郎との間に7人の子供を儲け、内3人が夭折し、合計5人の子を育てた。 太平洋戦争中、一家は初代の父親の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に疎開した。初代は几帳面できれい好きであったため、一家の借りていた部屋の床はいつもよく磨かれていて、後々まで光り方が違っていたという。1945年(昭和20年)、終戦で山口県の日立車輛の工場は閉鎖された。東京も焼け野原で職はなく、一家は江刺郡岩谷堂に移住し、桜井五郎は胆沢郡水沢町(現・奥州市水沢区)で塗装業を営んだ。 1948年(昭和23年)、初代は長年の飲酒や心労の影響か、脳溢血で倒れた。その後回復はしたが半身不随となり、杖をついて足を引きずる身となった。1950年(昭和25年)、どうしても東京に行きたいという初代の希望により一家は上京し、江東区深川(旧・深川区砂町)に移住した。生活に困窮し、小学生の三男・靖郎まで夕刊売りや鉄屑拾いをした。 1951年(昭和26年)2月27日、初代は44歳で死去した。遺骨は夫の実家のある文京区向丘2丁目29-1の十方寺に納骨された。戒名は「初譽貞順大姉」。川端は、その4年後の1955年(昭和30年)頃、初代の妹・マキの次女の白田紀子から手紙をもらい、初代の死を知った。文学少女であった紀子は、有名作家に手紙を出してみたくなり、「初代の姪」と自己紹介し、演劇に興味を持っていることなども書いたが、投函した後にひどく恥ずかしくなったという。川端からの返事はなかった。 川端はその後1965年(昭和40年)7月に発表した水郷潮来の紀行文『水郷』の中で、初代の死に触れた。川端は、〈その少女〉との結婚の約束後たちまち破談し〈私の傷心は深かつた〉とし、水郷潮来の地と重ねながら以下のように思いを語った。 関東大震災にも、私はその少女の安否を気づかつて、「焼け野原」の東京をさまよつた。その少女が『船頭小唄』、殊に『水藻の花』の、潮来の娘船頭のやうな栗島すみ子に、じつにそつくりであつた。私にはさう見えた。満員の映画館で立見してゐた私は、連れの友人の手前、涙をこらへるのに懸命であつた。その少女も今は世にゐない。姪の手紙で、私はその死を知つた。 — 川端康成「水郷」 成長した初代の三男・靖郎は、松下電器の下請け工場・松栄製作所を開業して一家を養い、1972年(昭和47年)に神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園に墓地を購入して、母の遺骨を移した。鎌倉霊園には、その年4月16日に亡くなった川端の遺骨も埋葬されたが、奇しくも初代の納骨日は、川端の納骨日と同じ6月3日であった。川端の納骨式には佐藤栄作など要人来訪で、当日は物々しい警備がなされていたために、その記録が残っていた。川端香男里は、霊園の事務所で聞いて初めてその事実を知り、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。
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