全羅道・忠清道掃討戦
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「文禄・慶長の役」の記事における「全羅道・忠清道掃討戦」の解説
朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令拒否のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任に元均が任命された。 朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに慶長2年(1597年)7月に出撃を行った。しかし、攻撃は失敗し、帰路に巨済島沖の漆川梁で停泊していた。この情報を得た日本軍は水陸から攻撃する作戦を立て、7月16日海上からは藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明等の水軍が攻撃し、陸上からも島津義弘・小西行長等が攻撃した。この漆川梁海戦は日本軍の大勝となり朝鮮水軍の幹部指揮官、元均、李億祺、崔湖を戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えた。海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍(及び水軍)の二隊に分かれ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右軍は8月16日黄石山城を落城させた(黄石山城の戦い)。さらに、左軍および上陸した水軍諸隊は8月12日から南原城を攻撃し、明軍では主将の明将楊元が逃亡、李新芳・蒋表・毛承先らの副将が戦死、朝鮮軍では李福男(全羅兵使)・任鉉(南原府使)・金敬老(助防将)・鄭期遠(接伴使)・申浩(別将)・李元春(求礼県監)・馬応房(鎮安県監)・呉応鼎(防禦使)・李徳恢(判官)・黄大中(義兵指揮官)ら諸将が戦死、南原城は落城し、明・朝鮮軍は5000人が戦死し全滅した。(南原城の戦い)。逃亡した楊元は後に罪を問われ明軍の手によって処刑された。日本軍がたちまち二城を陥落させ全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走し、8月19日無血占領する。南原と全州の陥落により明・朝鮮軍の全羅道方面における組織的防衛力は瓦解した。 日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に分かれ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意し、9月7日に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の稷山で遭遇戦となったが決着はつかず、毛利秀元の救援到着を耳にした明軍は水原に撤退し、日本軍も引き上げた(稷山の戦い)。 一方海上では、朝鮮水軍の残存艦隊を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が率いて全羅右水営に拠っていた。李舜臣は、南原城から南下した後、再び乗船して西進していた日本水軍を、9月17日鳴梁海峡で迎え撃ち、これに痛打を与えると速やかに退却した。この鳴梁海戦の翌日、日本水軍は朝鮮水軍の去った全羅右水営を占領する。さらに、日本の陸軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は拠点を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、日本水軍は全羅道西岸まで進出し、陸軍に呼応するかたちで制圧していった。このとき日本水軍は姜沆や鄭希得などの多くの捕虜を得た。後に『看羊録』を残した姜沆が9月23日に藤堂水軍の捕虜となった地点は全羅道霊光の西岸である。 稷山に日本軍が進出すると、明・朝鮮軍は漢江を主防衛線に設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが、漢城では日本軍の接近でパニックに陥っており、人々は逃走をはかりほとんど無人となるほどであった。このときの明軍は兵力が少数にすぎず弱体であり、朝鮮軍は既に潰散していた。このとき、朝鮮では漢城を維持できる状態になく、朝臣たちはわれ先に都を出て避難することを献策した。 一方、日本の右軍は稷山での戦闘の後、9月10日には京畿道の安城・竹山まで前進した。 こうして日本軍は秀吉の作戦目標通り全羅道・忠清道を成敗し、さらに京畿道まで進出すると、計画通り沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に、計画通り新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。城郭群の完成後は各城の在番軍以外の軍勢は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。朝鮮の朝廷では日本軍の反転理由が分からず日本軍の罠ではないかと疑った。
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