全線高架への計画変更以降
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「東北・上越新幹線反対運動」の記事における「全線高架への計画変更以降」の解説
その後、当該区間において顕著な地盤の沈下・隆起がみられることを理由として、1973年(昭和48年)3月10日に地下区間を高架方式とする計画変更が発表されると、当初は目立った反対運動の見られなかった浦和市、与野市でも反対運動が発生、埼玉県もこの提案を拒否した。 また計画変更は、東京都北区・板橋区における経路の変更を伴うものであり、これによって直下にトンネル(赤羽台トンネル)が新たに掘られることとなった、東京都北区での反対運動も激化することとなった。主な住民組織として、与野市に「与野市新幹線反対同盟協議会」、浦和市に「浦和市新幹線対策住民連絡協議会」、戸田市に「戸田市通過反対市民同盟会」が組織され、さらに1974年(昭和49年)4月には、この3市の住民からなる「新幹線反対県南三市連合会(三市連)」が組織された。 赤羽台トンネルの真上に位置する星美学園が騒音などの問題から強硬に反対、そして東京都北区の住民による「北区新幹線対策連絡協議会(北新連)」が組織され、これらの住民組織が反対運動を展開することとなった。 住民による反対運動は、デモ行進、ピケッティングなどによって展開された。このほか、日本国有鉄道(国鉄)の説明会場へ押しかけ説明会を開催させない、あるいは会場を何時間にも渡って取り囲み、国鉄職員が外へ出られない状況を作ったりなどした。一方で、成田闘争のような過激派の介入を防ぐことにも、注意が払われた。 後に、「与野市新幹線反対同盟協議会」の代表であった遠藤富寿は次のように述懐している。 国家権力による一方的な手法に対して、普通の主婦も立ち上がらざるを得ない状況だった。ただ、「成田闘争」には悪いイメージがあって、極左の排除には気をつかった。 — 『回想畑県政二十年』1996年、p62 また、反対運動当時の埼玉県知事であった畑和は、次のように述懐している。 反対運動が盛り上がる中、私はたびたび「三市連」の幹部と会談した。激励さえしなかったものの、「まあ、悪いようにはしないから」とは常々言っていたと思う。彼らの運動を目の当たりにし、心の中で「捨てたもんじゃない」とある種の感動を覚えていたことも確かだった。「成田闘争」のような過激な集団でなかったことも助かった。彼らのやり方は住民運動の好例になるような感じだった。 — 『回想畑県政二十年 』1996年、pp62-63 このような反対運動の高まりの中で、1975年(昭和50年)5月に衆議院公害環境特別委員会で国鉄の藤井松太郎総裁が、東京駅 - 大宮駅間の工事中断を表明、1976年(昭和51年)12月16日に当時の埼玉県知事の畑知事が「大宮駅 - 赤羽駅間の通勤新線建設」「大宮 - 伊奈間の新交通システム導入」「環境基準遵守のため開業時の速度低下および緩衝地帯として都市施設帯等の設置」「大宮駅に全列車を停車」を4条件として県南高架建設に条件付同意を埼玉県議会で示した。その後、1977年(昭和52年)10月に福田赳夫首相が東北・上越新幹線の大宮駅暫定開業の考えを示し、さらに国鉄は、通勤新線の建設を埼玉県に約束をして、地元の柔軟化に期待した。 年表 1973年(昭和48年)3月10日 - 畑和埼玉県知事と佐藤文生運輸政務次官が会談。佐藤次官が「地盤沈下がひどく地下化は無理」「全面高架を認めてもらえるならば、県南で要望の強い通勤線をこれに併設」と発言する。 同日 - 東北新幹線の大宮駅 - 赤羽駅間の工事実施計画の変更が発表される。この計画変更の内容は、東京都北区内のルートが西寄りのより人家の多い地帯を通過すること、および埼玉県南部の地下案を撤回し浦和市・与野市でも高架とすること。これに伴い北区の住民運動は激化、浦和市・与野市でも反対運動が発生。 4月26日 - 与野市議会新幹線等対策特別委員会に対して市民300名が押しかけ、大混乱となる。 5月1日 - 「与野市新幹線反対同盟協議会」発足。 1974年(昭和49年)4月13日 - 「新幹線反対県南三市連合会」(戸田市・浦和市・与野市の3市〈市名は当時〉)発足。通称「三市連」。 1975年(昭和50年)5月 - 衆議院公害環境特別委員会で国鉄の藤井松太郎総裁が、東京駅 - 大宮駅間の工事中断を表明。 12月23日 - 国鉄の藤井松太郎総裁が、「最悪な場合は大宮駅を臨時的にターミナルとすることも考えている」と国会で答弁。 1976年(昭和51年)12月16日 - 畑知事が「大宮駅 - 赤羽駅間の通勤新線建設」「大宮 - 伊奈間の新交通システム導入」「環境基準遵守のため開業時の速度低下および緩衝地帯として都市施設帯等の設置」「大宮駅に全列車を停車」を4条件として、県南高架建設に条件付同意を埼玉県議会で示す。 1977年(昭和52年)10月 - 福田赳夫首相が東北・上越新幹線の大宮駅暫定開業の考えを示す。国鉄も、通勤新線の建設を表明。
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