功山寺挙兵
(元治の内乱 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 16:36 UTC 版)
功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。 回天義挙とも[要出典]。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
- ^ 澤宣嘉は生野の変で挙兵するため脱走し、錦小路頼徳は元治元年4月27日に病没している。
- ^ 五卿はもともとは三田尻御茶屋内の招賢閣に滞在していたが、政情不安定で、三条は湯田の草刈屋敷に、他の五卿は大内の氷上山真光院に住まいを替えた。藩士の草刈が俗論派で居心地が悪かったため、三條は井上聞多の実家に移ったが、手狭だったため、新たに離れを増築、これが高田御殿だが、そこへ笠間藩の儒学者加藤有隣が長州へ下向し三条に従っていたため、三条は加藤に新たな離れに名前を付けるよう命じ、「何遠亭」と名付けられる。三條はここに5月1日から11月15日までいた。ここは現在、井上公園。何遠亭(かえんてい)は復元されている。2015年6月22日から一般公開されている。
- ^ 国会図書館デジタルコレクション 維新百年と光市
- 1 功山寺挙兵とは
- 2 功山寺挙兵の概要
- 3 概要
- 4 参考文献・関連文献
- 元治の内乱のページへのリンク