赤村の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
1月16日、高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を率いて絵堂方面より進んだ。そして粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこれを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。粟屋は退却し明木の本軍と合流した。この後、高杉は諸隊に向かって明木の討伐軍本営を衝くべきと主張したが、狭い山道を進むよりも山口に向かおうとした山縣は太田(御盾隊)、福田侠平(奇兵隊)、堀慎五郎(八幡隊)を集めて「もし諸君が明木に進軍するつもりなら私も異論はないが、それならば私を先鋒にしてもらいたい」と発言した。高杉は明木への進撃を撤回した。 大田・絵堂、赤村の戦いは元治の内乱における最大の激戦であり、戦死者は両軍合わせて40〜60名程度となる。鎮静軍の敗北を知った俗論派の萩政府は、長州支藩ならびに岩国領の吉川経幹へ援軍を要請する。
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