俳句の近代化と無季
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明治中期、正岡子規は天保以来の宗匠俳句を陳腐に堕した「月並調」として退け、連句から独立した俳句をれっきとした文藝の一分野であると宣言し、写生の方法を機軸として俳句の近代化を進めた。『俳諧大要』(1899年)では、子規は俳句における季語について、その季節に関する広い連想を呼び起こすものであり、俳句という短い形式において必要なものと位置づけ、「四季の聯(連)想を解せざる者は終(つい)に俳句を解せざる者なり」と書いている。その上で無季(雑)の句について、 雑の句は四季の聯想なきを以て、その意味浅薄にして吟唱に堪へざる者多し。ただ雄壮高大なる者に至りては必ずしも四季の変化を待たず。故に間々(まま)この種の雑の句を見る。古来作る所の雑の句極めて少(すくな)きが中に、過半は富士を詠じたる者なり。しかしてその吟唱すべき者、また富士の句なり。 と書き、富士山を詠んだ句なら無季でも構わないだろうという認識を示している。子規自身も富士を詠んだ無季句の実作を試みており、子規の死後にまとめられた句集『寒山落木』(1924-26年)には「不二は朝裾野は暗のともし哉(かな)」「富士の山雲より下の広さかな」といった句が収められているが、いずれも拾遺句・抹消句として収録されているもので成功作ではない。 子規の没後、明治40年(1907年)頃から大正期にかけて河東碧梧桐が新傾向俳句運動を推進し、季語の暗示的な用法や、写実主義の影響のもと、人為を廃して対象に迫るべきことを説いた「無中心論」を展開、結果として定型や季語(季題)・季感は軽視された。碧梧桐自身は季語・季題を捨てることまではしなかったが、この新傾向俳句運動の周辺から、「層雲」主宰の荻原井泉水やその弟子の尾崎放哉、種田山頭火、「試作」(のち碧梧桐に代わり「海紅」主宰)の中塚一碧楼が、それぞれ季語や定型に囚われない句作を提唱し、彼らによってしばしば無季・口語によって作られる自由律俳句の流れが作り出されていった。また自由律は栗林一石路や橋本夢道を中心に、季題に囚われないプロレタリア俳句運動を展開した。 走つてぬれてきて好い雨だという 荻原井泉水まっすぐな道でさみしい 種田山頭火入れ物が無い両手で受ける 尾崎放哉赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け 中塚一碧楼しんじつたべ酔うた百姓のよろしき雨降り 栗林一石路べっとりと濡れた今日の賃金が同じだ 橋本夢道 こうした新傾向俳句の広まりに対して、一時俳壇を退いていた高浜虚子は1913年頃に俳壇に復活、季語・定型を重視する立場を表明し「守旧派」を自称した。1928年頃からは「客観写生」の理念に加えて「花鳥諷詠」の理念を説き、俳句とはすなわち季節の風物(花鳥風月)を詠むものであるとして無季俳句を排斥する立場を取る。虚子の主宰する「ホトトギス」の伝統俳句は俳壇の主流となり、これにより「季語を持たないものは俳句ではない」という観念が広まっていった。なお20万を超えると言われる虚子の句の中には無季の句もあり、以下のような数句が確認できるが、いずれも後年になって句集・全集などから削除されたり、別の句に差し替えられたりしている。 虎の皮の褌に居る虱かな 明治32年祇王寺の留守の扉や推せば開く 大正14年我に似し人を気おひてけなしけり 昭和5年雨漏りを指さす人と瓦廊かな 昭和11年荷物置き上着脱ぎかけ発車待つ 昭和12年面舵を取りて灯台右舷に見 昭和15年公園の茶屋の亭主の無愛想 昭和16年
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