乙案の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
会議は外交交渉の討議に移り、東郷外相は29日に同意を取り付けていた甲案に加え、突如乙案を示して、寝耳に水の軍部に衝撃を与えた。 乙案(外務省原案) 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない 日米は蘭印において必要資源を得られるよう相互協力する 米国は年100万トンの航空揮発油の対日供給を確約する (備考一)本取決が成立すれば日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意あり (備考二)必要があれば従来の提案(甲案)の中にある通商無差別待遇、三国条約に関する規定を追加挿入する 乙案の狙いは日米関係を資産凍結前の状態に復帰させること、南部仏印からの撤兵により武力南進の断念及び平和的意図という日本の誠意を見せることであった。東郷は「従来の交渉のやり方がまずいから、自分は先ず条件の場面を狭くして南の方の事だけを片づけ、支那の方は日本自身でやるようにしたい」「甲案は短時日に望みなしと思う」と説明している。 しかし、杉山参謀総長と塚田参謀次長は乙案に強硬に反対し、 乙案は支那問題に触れることなく仏印の兵を撤するもので、国防的見地から国をあやまることになる 資金凍結解除だけでは通商は元の通り殆ど出来ない、特に石油は入ってこない 仏印駐屯は対米政策上及び支那事変解決上重要である という主張を展開、特に塚田は南部仏印からの撤兵について「絶対に不可なり」と繰り返した。このため原案第3項は「資金凍結前の通商状態に復帰し、油の輸入を加える」に改められ、「支那事変解決を妨害しない」(米国の援蔣政策停止を求める項目)が第4項として追加された。 その後も、なお南部仏印撤兵反対を主張する杉山、塚田と、そのような条件では外交はできぬと主張する東郷との間で、会議が幾度か決裂に瀕するほどの大論戦となった(海軍では永野軍令部総長が乙案に賛成を表明している)。『杉山メモ』には討議の経過が次のようにある。 「右の如く南仏(印)より北仏(印)に移駐すること、及乙案不可なることに就ては、総長次長は声を大にして東郷と激論し、東郷は之に同意せす、時に非戦を以て脅威しつつ自説を固持し、此儘議論を進むる時は東郷の退却即倒閣のおそれあり、武藤局長休憩を提議し十分間休む」 ここで東條首相、武藤軍務局長、杉山、塚田は別室で協議し、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあること、また援蔣停止の要求があればアメリカは乙案を呑まないだろうという結論に達し、杉山と塚田はやむなく乙案に同意することになった。なお、東郷によれば、武藤は「若し此際外務大臣の主張を斥けて交渉不成立となる場合、陸軍では其責任がとれますか」とまで言って杉山に談じ込んだくれたという。 ここに11月1日午前9時から翌2日午前1時まで16時間にわたった「歴史的重大連絡会議」(『機密戦争日誌』11月2日付)は終了し、2日正午、対米英蘭戦争決意の下に「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立すれば武力発動を中止すること」を柱とした「帝国国策遂行要領」が採択された。同午後5時、東條、杉山、永野が列立して連絡会議の結果を昭和天皇に上奏した。天皇の期待に応えられなかったためか、東條は涙を流しながら上奏したという。
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