乙案の提示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
東郷外相は11月4日の乙案打電から20日の乙案交渉開始の訓電まで、幾度となく乙案の修正を指示していた。その間、備考一の仏印からの撤兵は第5項に、備考ニの通商無差別待遇と三国条約はそれぞれ第6項と第7項となったが、最終的には第5項に南部仏印撤兵の項目を追加挿入し、第6項と第7項は削除した。交渉開始にあたり、東郷は南部仏印からの撤兵は極めて重要な譲歩であること、中国からの撤兵及び通商無差別待遇と三国条約の懸案三問題を棚上げして緊迫した空気を緩和していることの二点をアメリカ側に強調するよう野村に指示した。 11月20日(米時間)、野村と来栖は乙案をハルに提示した(実際にアメリカ側に提示された乙案では、野村・来栖の独断により第5項を第2項へと移動し、条項の順番が入れ替えられている)。 乙案 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない 日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す 日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう相互協力する 日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する 米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む 乙案についてハルは援蔣の停止(第5項)に強い難色を示した。ハルは、アメリカはドイツの征服政策に対抗してイギリスを援助している、日本の政策が確然と平和政策とならざる限り、援蔣政策と援英政策は同一であるとして「援蔣政策を変更することは困難」であるとした。そして、会談の最後にハルは沈痛な面持ちで乙案を「同情的に検討する」と述べたという。ハルは乙案の内容よりも、それがアメリカにとって「最後通牒」であったことであった点に苦慮しており、日本との間になんらかの暫定協定案を結ばない限り、開戦になるかもしれないという最終的な選択を迫られていた。 一方、乙案の決定以降、参謀本部は交渉成立を恐れ一喜一憂していたが(『機密戦争日誌』には「来栖の飛行機墜落を祈る者あり」(11月10日)、「乙案成立を恐る」(13日)、「援蔣停止の要求により交渉は決裂すべきこと最早疑を容れず」(20日)などの記述がある)、ハルの難色が伝えられるや「之にて交渉愈々決裂すべし芽出度々々々」(21日)と喜んだ。 援蔣の停止は乙案交渉のネックとなったが、これについて東郷は、アメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば援蔣政策は不要になるではないか、と問題を先送りする論法で理解を求めている(11月24日、グルー駐日アメリカ大使との会談において)。 なお、25日までの交渉期限は、22日発の東郷外相からの訓電により29日までに延長された。この訓電には「右期日は此以上の変更は絶対不可能にして其後の情勢は自動的に進展する」とあったが、言うまでもなくアメリカ側は「マジック」により解読済みであった。
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