三藩の乱とその影響
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「三藩の乱とその影響」の解説
1673年11月、平西王の呉三桂が清に対して反乱を起こした。呉三桂に続いて靖南王の耿精忠、平南王の尚之信も清に反旗を翻し、清は三藩の乱と呼ばれる内乱状態になった。この三藩の乱に鄭氏政権も加担する。その結果、琉球の対清関係は危機に晒されることになった。乱が起きる前の1673年3月、琉球は通常の進貢使を清に派遣していた。この進貢使は北京で康熙帝への謁見を行い、福州に戻る途中で乱に巻き込まれ、蘇州に約3年間滞在することを余儀なくされる。一方1673年の進貢使のうち福州に留まっていた人たちは三藩のひとつ、靖南王の耿精忠から琉球帰国を許され、1674年6月に帰国していた。この琉球帰国者、そして長崎に来航した中国船からの情報から、幕府は三藩の乱についての情報把握を行った。乱が始まってしばらくの間は三藩側の勢力も強大で、最盛期には長江以南をほぼ制圧していた。幕府がまず入手した情報は乱の初期の三藩側が強勢であった時点のもので、反乱側優勢との判断をする。 1674年6月に琉球に帰国した前年派遣の進貢使の福州残留組は、耿精忠から琉球中山王宛の書状を手渡されていた。書状には清に対して反旗を翻すに至った経緯とともに、進貢を行うように指示していた。また呉三桂からも明の復興に力を貸すよう働きかける文書が日本側に届けられていた。そうこうするうちに琉球側に難題が降りかかる。1676年6月、耿精忠の使者である陳応昌が来琉し、火薬の材料となる軍需物資である硫黄の引き渡しを要求したのである。 陳応昌は総勢100名余りの使節団を率いており、通訳として土通事の鄭裴を伴っていた。鄭裴はこれまで同僚の土通事である謝必振とともに、通訳であるとともに琉球と中国側との関係の調整役を務めてきた人物であった。陳応昌は耿精忠を始めとする三藩側の優勢を主張し、2~3年以内に清を中国から駆逐すると豪語した。そして琉球が味方をするならば安全は保障するが、味方をせねば今後、災難が起きるだろうと脅した。 琉球側は陳応昌の硫黄引き渡し要求に対する対応を協議した。琉球としては乱の趨勢が明らかでない以上、引き渡しに応えないのは無理があると判断し、薩摩藩と幕府に対して硫黄引き渡しを認めるよう要請した。幕府は琉球の意向を認め、耿精忠の使節団は11月、琉球国王から耿精忠宛の書状とともに硫黄を積み込んで琉球を出発した。その一方で琉球側は蔡国器を探問使として派遣することを決定した。当初、探問使は靖南王である耿精忠宛の慶賀の書状のみを持参する予定であった。しかしその決定に蔡国器が異議を唱えた。蔡は清に対して乱の安否を尋ねる書状も用意するべきだと主張したのである。蔡国器の意見を国王尚貞は万全の策であると評価し、結局、耿精忠宛と清宛の二通の書状を持参して蔡国器は出発する。 ところが1676年9月には清側の攻撃によって耿精忠は降伏していた。陳応昌は耿精忠の降伏を知ると、琉球国王から耿精忠宛の書状を焼き捨て、硫黄を海中に投棄させた上で逃亡を図った。しかし陳応昌は清軍に囚われてしまう。清側からの取り調べに対し陳応昌は、耿精忠の使節団長として琉球へ行ったことは事実であるが、琉球には硫黄は無く手ぶらで帰って来たと言い張った。そのような中、1677年4月に琉球から蔡国器が到着する。蔡国器は土通事の謝必振からこれまでのいきさつについて確認した。耿精忠の降伏を聞いた蔡は、まず琉球国王から耿精忠宛の書状を焼き捨てた。 また謝必振は蔡国器に、陳応昌が琉球には硫黄が無くて手ぶらで帰ってきたと清側からの取り調べ時に証言したとの話を伝えた。蔡国器も清側からの尋問を受け、琉球は清に背いて耿精忠の使いである陳応昌に対して硫黄を渡したのではと疑われたが、蔡国器は清の恩を受けている琉球はそのような裏切り行為は行っていないと主張し、現にこの私が清に乱についての安否を尋ねる使者として派遣されている。琉球が裏切っているのならば安否を尋ねる使者など送らないはずではないかと訴えた。耿精忠の使節団長の陳応昌と琉球使節の蔡国器の証言は一致しており、清側としても信用せざるを得なかった。なお、陳応昌と蔡国器の証言の一致は偶然性が高いものであったとの説と、土通事の謝必振、鄭裴の根回しによって両者の証言の一致を引き出していったとの説がある。 いずれにしても福州から北京の康熙帝には、琉球は靖南王耿精忠の援助要請を撥ねつけ、乱の安否を尋ねる使者を送って来たと上奏された。三藩の乱側にはベトナムの莫朝も加担するなど、清の朝貢国の中にも広く動揺が見られた。そのような中で琉球が忠節を守っていたとの報告を受けた康熙帝は大いに喜び、琉球を高く評価した。この事実とは異なるものの、三藩の乱時に琉球が清に対する忠誠を守ったとのストーリーは、琉球と清との関係に大きな影響を与えることになる。
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