三藩の乱とその影響とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 三藩の乱とその影響の意味・解説 

三藩の乱とその影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「三藩の乱とその影響」の解説

1673年11月、平西王呉三桂清に対して反乱起こした呉三桂続いて南王耿精忠平南王の尚之信清に反旗を翻し、清は三藩の乱呼ばれる内乱状態になった。この三藩の乱鄭氏政権加担するその結果琉球の対清関係は危機晒されることになった。乱が起きる前の1673年3月琉球通常の進貢使を清に派遣していた。この進貢使は北京康熙帝への謁見行い福州に戻る途中で乱に巻き込まれ蘇州に約3年滞在することを余儀なくされる一方1673年進貢使のうち福州に留まっていた人たちは三藩のひとつ、靖南王耿精忠から琉球帰国許され1674年6月帰国していた。この琉球帰国者、そして長崎来航した中国船からの情報から、幕府三藩の乱についての情報把握行った。乱が始まってしばらくの間三藩側の勢力強大で、最盛期には長江以南をほぼ制圧していた。幕府がまず入手した情報は乱の初期三藩側が強勢であった時点のもので、反乱優勢との判断をする。 1674年6月琉球帰国した前年派遣進貢使の福州残留組は、耿精忠から琉球中山王宛の書状手渡されていた。書状には清に対して反旗を翻す至った経緯とともに進貢を行うように指示していた。また呉三桂からも明の復興力を貸すよう働きかける文書日本側に届けられていた。そうこうするうちに琉球側に難題降りかかる1676年6月耿精忠使者である陳応昌が来琉し、火薬材料となる軍需物資である硫黄引き渡し要求したのである陳応昌は総勢100余り使節団率いており、通訳として通事の鄭裴を伴っていた。鄭裴はこれまで同僚の土通事である謝必振とともに通訳であるとともに琉球中国側との関係の調整役務めてきた人物であった陳応昌は耿精忠始めとする三藩側の優勢主張し、2~3年以内に清を中国から駆逐する豪語した。そして琉球味方をするならば安全は保障するが、味方をせねば今後災難起きるだろうと脅した琉球側は陳応昌の硫黄引き渡し要求対する対応を協議した琉球としては乱の趨勢明らかでない以上、引き渡し応えないのは無理があると判断し薩摩藩幕府に対して硫黄引き渡し認めるよう要請した幕府琉球意向認め耿精忠使節団11月琉球国王から耿精忠宛の書状とともに硫黄積み込んで琉球出発した。その一方で琉球側は蔡国器を探問使として派遣することを決定した当初、探問使は靖南王である耿精忠宛の慶賀書状のみを持参する予定であった。しかしその決定に蔡国器が異議唱えた。蔡は清に対して乱の安否を尋ねる書状用意するべきだ主張したのである。蔡国器の意見国王尚貞万全の策であると評価し結局耿精忠宛と清宛の二通書状持参して蔡国器は出発する。 ところが1676年9月には清側の攻撃によって耿精忠降伏していた。陳応昌は耿精忠降伏を知ると、琉球国王から耿精忠宛の書状焼き捨て硫黄海中投棄させた上で逃亡図った。しかし陳応昌は清軍に囚われてしまう。清側から取り調べ対し陳応昌は、耿精忠使節団長として琉球行ったことは事実であるが、琉球には硫黄無く手ぶら帰って来たと言い張ったそのような中、1677年4月琉球から蔡国器が到着する。蔡国器は土通事の謝必振からこれまでのいきさつについて確認した耿精忠降伏聞いた蔡は、まず琉球国王から耿精忠宛の書状焼き捨てた。 また謝必振は蔡国器に、陳応昌が琉球には硫黄無くて手ぶら帰ってきたと清側から取り調べ時に証言したとの話を伝えた。蔡国器も清側から尋問を受け、琉球清に背いて耿精忠使いである陳応に対して硫黄渡したのではと疑われたが、蔡国器は清の恩を受けている琉球そのような裏切り行為行っていないと主張し、現にこの私が清に乱についての安否を尋ねる使者として派遣されている。琉球裏切っているのならば安否を尋ねる使者など送らないはずではないか訴えた耿精忠使節団長の陳応昌と琉球使節の蔡国器の証言一致しており、清側としても信用せざるを得なかった。なお、陳応昌と蔡国器の証言一致偶然性が高いものであったとの説と、土通事の謝必振、鄭裴の根回しによって両者証言一致引き出していったとの説がある。 いずれにしても福州から北京康熙帝には、琉球は靖南王耿精忠援助要請撥ねつけ、乱の安否を尋ねる使者送って来たと上奏された。三藩の乱側にはベトナム莫朝加担するなど、清の朝貢国中にも広く動揺見られた。そのような中で琉球忠節守っていたとの報告受けた康熙帝大い喜び琉球高く評価した。この事実とは異なるものの、三藩の乱時に琉球清に対す忠誠守ったとのストーリーは、琉球清との関係大きな影響与えることになる。

※この「三藩の乱とその影響」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「三藩の乱とその影響」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三藩の乱とその影響」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三藩の乱とその影響」の関連用語

1
2% |||||

三藩の乱とその影響のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三藩の乱とその影響のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの琉球の朝貢と冊封の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS