三菱の誤算
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 14:08 UTC 版)
1979年(昭和54年)、マクドネル・ダグラスのDC-10が、シカゴとパリで相次いで墜落し、数百名が死亡した。ダグラスの企業体質だけでなく、FAAの審査基準が甘かったのではないかと、連邦議会でも追及された。そのため、FAAは審査基準を大幅に厳しくする雰囲気となって、航空各社は動揺していた。 しかし三菱を含めた小型機メーカーは、この基準はダグラスやボーイングなどの大型機に適用されるもので、軽飛行機は無関係だと考えており、また完成したMU-300に自信を持っていたため、事故や議会の追及後も機体の改修などを施さず、FAAが動き出すのを待っていた。 だが、FAAは全ての機体への審査基準を厳しくすると発表した。三菱にとっては大きな誤算だった。新たな基準の対策について前例もなく、設計変更と試験機改修に苦しんだ。8月の耐空試験から9ヶ月後の1980年5月、ようやく飛行試験の許可を得たが、MU-300は基準改正後の試験対象第一号となり、航空業界から多大な注目を浴びることになってしまった。しかも、その試験自体がFAAも判断に迷う内容ばかりで、解釈をめぐってFAA内で延々と議論を続けたため、335時間、17ヶ月に及ぶ非常に膨大な時間を費やしてしまった。1980年(昭和55年)9月には110機も仮受注していたが、手直しや設計変更がいたるところに発生し、型式証明を取得できたのは翌1981年(昭和56年)11月であった。 日本で販売した時期は、第二次オイルショックからバブル景気前の円高不況であったため、売上は伸び悩んだ。 海外では三菱の社紋である菱形(ひしがた)に掛けた「DIAMOND(ダイヤモンド)」の名で販売され、速度、スタイル、操縦性及び低燃費など、その技術力の高さが評判を呼んだが、頼りのアメリカ合衆国市場はFAA審査に手間取っている間に一変、政府が高金利政策をとったことで不況に陥り、航空業界も軒並み経営悪化、ビジネス機の需要は皆無となっていた。そのうえ、FAA審査の手間取りでMU-300の信用が低下、納入の遅れによって契約のキャンセルが相次いだ。110機もの仮契約で自信を深めていた三菱の衝撃は大きかった。高額である飛行機の受注は半ば投機的なもので、見通しが狂えばキャンセルするのはこの業界の常識であったが、三菱はキャンセルに対する有効な手段を全く用意していなかった。 また、三菱は1970年代初頭にあった米航空業界の規制緩和によって、激しい競争にさらされるエアラインは、軒並みローカル線から手を引き、そこで自家用や社用のビジネスジェット機の需要が増すと考えていた。現実に大手エアラインを中心にローカル線は次々に閉鎖され、一方の自家用ジェット機の需要は好景気に支えられて増えていた。 だがその目論見は大きく外れた。不況によってビジネス機需要は頭打ちとなり、一方のエアラインは、全米の空港をコンピューターネットワークで結んだ「ハブシステム」を導入し、主要空港での乗り継ぎの便を良くするなど、新たな戦略を次々に打ち出してきた。ビジネス機市場は大メーカーでさえ生き残りをかけた非情なリストラ策を講じるほかなく、三菱も追い詰められた。 遂には、役員会において現地法人MAIの清算まで議題に上るほどであった。このとき、MU-2で発生した赤字を含め、100億円もの負債を抱えていた。機体の開発費だけでなく、販売網やサービスネットワークの製作によって発生した赤字は、三菱一社で支えられるものではなくなり、総合重工業である三菱では、他の部門から航空宇宙部門への不満が発生していた。
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