三菱による三崎町開発計画と劇場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:00 UTC 版)
「川上座」の記事における「三菱による三崎町開発計画と劇場」の解説
川上座が所在した神田三崎町一帯は、江戸時代を通じて小川町と呼ばれ、1859年(安政6年)以降には幕府の講武所が設けられた。明治維新後には練兵場として利用されていたが、1890年(明治23年)に三菱へと払い下げられたことを契機として、都市開発が行なわれた。 低い家賃設定や、甲武鉄道飯田町駅に近かったことなどにより、三崎町には劇場が多く建設され賑わいを見せた。三崎三座をはじめとするにぎわいの背景には、このような三菱による地区開発があり、三崎三座の設置自体がそれらの計画の一部であったとする考えもある。 当初、川上座は「川上演伎場」の名で神田淡路町に建設される予定であった。板囲いまでしたにもかかわらず、建設は事情により中止され、1893年(明治26年)には三崎町へ新劇場の建設を申請した。移転の原因は不明である。なお、同年11月23日付の読売新聞記事によれば、移転前の所在は神田錦町とされている。
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