三菱の疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 17:29 UTC 版)
1944年(昭和19年)12月7日、突如として当地方を揺るがした東南海地震により、三菱重工業名古屋航空機大江工場は大きな地割れで工場施設、組立治具等が破損し、工場は麻痺状態に陥った。それに加えて、同月18日にはB29の爆撃により人的被害はもちろん、工場の中枢部が壊滅的打撃を受け、急遽当時の大府町に疎開が始まった。 疎開地は結果として完成したばかりの飛行場と一体となった感があった。 疎開地のブロック分けとして、国鉄東海道本線の西側の飛行場方面のブロック、東海道本線の東側の横根山地区に分けられた。建物として約60棟の木造建築が建てられ、1945年(昭和20年)3月着工、同年8月にはほぼ完成している。 管理部門として大府駅周辺の主要建物が使われた。大府町役場2階、病院、個人邸、公会堂(人事課として)、地蔵院(訓育課として)など。その他大府駅前には、大府寮、設備課、材料課、勤労企画、庶務課、調査課、業務課、運輸課などが並び、大府はにわかに三菱の町となった感があった。
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