三島事件後――解散
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例会にいなかった他の楯の会会員たちも、その後自宅や大学などに公安警察官や私服の警察官が訪れ、事情聴取のために最寄りの警察署に任意同行された。班長は会員らに余計なことをしゃべらないように緘口令を敷いていた。警察官たちの取調べの口調から、彼らが三島に敬意を抱いていることが察せられたという。 三島の自決と遺言により、楯の会は解散となった。幹部同士で解散するかどうか論争があったが、遺言通りに三島の意志に従った。三島の遺書は、事件翌日11月26日に代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた森田の通夜で回し読みされた。楯の会過員一同宛ての遺書は、倉持清宛ての遺書と共に同封されていた。 小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。このために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐へてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据ゑて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。 — 三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月) 12月下旬に田中健一、西尾俊一、今井丈美が釈放された。森田の仲間の田中、西尾ら「十二社グループ」が作っていた政治結社「祖国防衛隊」は11月25日をもって解散とすることにし、翌年初頭に警視庁に解散届を出した。 1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で営まれた三島の葬儀、告別式には、楯の会会員とその家族も列席した。会員らは式場内で楯の会の制服に着替えて参列した。 2月28日、楯の会の解散式が西日暮里の神道禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した。夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所に選ばれた。会の制服は各人で保持することになった。 式では関河真克(4期生)の横笛が奏でられ、倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉 という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした。夫人から出席した会員全員に、三島の使っていたネクタイが贈られた。 4年の実刑が下った小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3人が1974年(昭和49年)10月に仮出所した。出所した古賀は国学院で神道を学び、鶴見神社で神主の資格を取った。古賀を神主として3人で三島・森田の慰霊を始めた所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった。その後、元会員相互や平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」(MM事務所)が設けられた。 なお、三島が各班長らに渡して、皇居の済寧館に預けられていた日本刀は、勝又武校と伊藤好雄が引き取りに行き、瑤子夫人のはからいで、各班長(倉持清、伊藤好雄、福田敏夫、小賀正義、福田俊作、小川正洋、勝又武校)に形見として渡された。勝又の刀はその後、古賀浩靖に譲られた。 1977年(昭和52年)3月3日、伊藤好雄と西尾俊一が参加した経団連襲撃事件が起こった。瑤子夫人の説得により投降し終結した。 1980年(昭和55年)1月に元会員15名ほどで「蛟龍会」が結組された。同年11月24日、市ヶ谷の私学会館で山本舜勝と元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が開催された。 1986年(昭和61年)11月25日、渋谷の日本神社会館で「三島由紀夫・森田必勝16年祭」が元楯の会会員らにより開催された。
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