ロボシュ山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 01:41 UTC 版)
「ロボジッツの戦い」の記事における「ロボシュ山の戦い」の解説
午後0時ごろ、ようやく霧が晴れてお互いの配置が明らかとなった。大王はモレーレン川の後方にオーストリア軍の本隊が並んでいるのを見、ブロウネはロボシュ山がプロイセン兵に占領されかかっていてロボジッツが危うくなっているのを知った。このころベーヴェルン公は射撃戦の末に敵軽歩兵をロボシュ山の南面から追い出して、登りから東面への下りに入ろうとしていた。大王はロボシュ山の戦いをさらに進めるため右翼から歩兵をどんどん応援に回し、その場に残る歩兵からも備える弾薬の半分を集めて左翼に送らせた。手薄になる右翼の戦力については騎兵で埋めることとした。対してブロウネも、ロボジッツの北にいたラシーの正規歩兵部隊に斜面を登って軽歩兵を援護しロボシュ山を守るよう命じた。またブロウネは南の歩兵部隊にズローヴィッツから川を越えて敵右翼を攻撃するよう命じたが、彼らはホモルカ高地からの強力な砲撃に制圧されて役目を果たせず、すぐまた川の後方に戻った。 大王はこのとき、戦いはもう敗北に決したと感じていた。大王はベーヴェルン公に、撤退前に最後の攻撃をかけるよう命じると、カイトに残りの指揮を委ね、モルヴィッツの誓いに反して自身は一足先に戦場を離脱した。しかしまさにこの頃ロボシュ山において勝敗を決する戦闘が行われていたところだった。 昼を境に戦闘の焦点は中央の平地から北のロボシュ山に移り、増援を得て山を完全に占拠しようとするベーヴェルン公と、それを阻止しようとするラシーとの間で再び激しい戦闘が開始された。ブレーカーも転進命令を受けてロボシュ山に登った兵の一人で、ブレーカーは戦闘から遠ざかったと思って「はずむ足取りで急傾斜のぶどう畑を急いでよじ登り、赤くて綺麗なぶどうの実を帽子にいっぱい詰めて、それをがむしゃらに食べた」りしていたが、下りに入るとそこで「数千のハンガリー兵」に直面し、激戦の渦中に投じられた。 両軍の間では石垣を壁にして、また葡萄の木々や茂みの間を縫って射撃戦が繰り広げられたが、藪や茂みを利用して巧みに立ち回るハンガリー兵を相手にするプロイセン軍はなかなか射撃効果が得られないのでまもなく弾を撃ち尽くす兵が多くなり、彼らは負傷者から残りの弾を受け取り、戦死者からはぎ取って戦闘を継続した。ブレーカーもわずかな時間で携行する60発の弾をほとんど撃ち尽くして、「おかげで私の銃は灼熱し、ベルトで引きずっていかねばならないほどだった」が、「私の撃った弾丸は生きている人間に命中したとは思えない。すべて空中に飛んでいったと思う」やがてプロイセン兵の射撃が滞りがちになり、ベーヴェルン公は最前線に駆けつけて兵を叱咤した。兵士たちが弾が無いと訴えると、ベーヴェルン公は叫んだ。「ならなんで銃剣で戦わない。突撃して、奴らを串刺しにしろ!」ベーヴェルン公の号令一下プロイセン兵は突撃して「ライオンのように」戦い、「プロイセンやブランデンブルク出身の兵士は、復讐の女神フリアのごとくハンガリー兵に襲いかかった」まもなくオーストリア軍は崩れて敗走し、プロイセン兵はいくつもある柵を飛び越えながら下り坂を駈け下りてこれを追った。山の斜面ではどこでも両軍の死傷者が横たわっており、「ハンガリー兵がまだ身動きしているのを見つけると、そいつは銃床で頭をたたかれ、銃剣で串刺しにされた」。 山から追い出されたオーストリア兵はロボジッツに逃げ込んで、オーストリア軍は障害と家屋を頼りに町を守ろうとした。ロボジッツからはオーストリア軍の砲兵が山の斜面を砲撃して下ってくるプロイセン軍を攻撃したが、プロイセン軍も対抗して榴弾砲を用い、炸裂弾を撃ち込んで町に火災を発生させた。山から下りたプロイセン兵はロボジッツの手前で戦列を整え、再度の突撃を準備した。カイトはベーヴェルン公を援護して決着をつけるべく残る歩兵部隊にも戦闘に加わるよう命じ、カイトから戦況の変化を知らされた大王も戦場に戻った。 午後3時ごろ、両軍は最後の戦闘に入った。プロイセン軍はロボジッツに殺到し、火の海になった町の中で熾烈な白兵戦が展開された。家屋に拠って抵抗したオーストリア兵は焼け出されるか、プロイセン兵によって叩き出された。追い詰められたオーストリア兵に「慈悲は与えられなかった」彼らは「正規兵も非正規兵も、火や銃剣による死から逃れようとしてエルベ川に跳び込み、溺れ死んだ」。 プロイセン軍がロボジッツを占領したことをもってブロウネは戦闘の続行を断念し、全軍に撤退行動に移るよう命じた。ブロウネは騎兵に援護させながらロボジッツ周辺で戦った兵士をその東で収容し、しかるのち戦闘隊形を維持したまま東に後退してプロイセン軍と距離を取った。南で遊兵化していた部隊も合わせて東に後退し、同時に北に寄ってロボジッツから撤退した部隊と連結を回復した。モレーレン川は相変わらずプロイセン軍にとって障害であって、大王はこれを闇雲に追うことはしなかった。代わりに大王はベーヴェルン公をズローヴィッツのさらに南の村チュイスコヴィッツに向けて前進させたので、これを見てブロウネはブディンへの退却路に先回りされることを恐れ、それ以上の遅延策は取らずにただちに撤退した。このようなブロウネの巧みな撤退指揮によりプロイセン軍は追撃をかけて戦果を拡大することが出来ず、オーストリア軍は比較的少ない損害で戦場を離脱した。 大王は戦闘終了後例のハンカチの騎兵を探させた。彼は何か所も斬られ、かつ撃たれて死んでいるのが発見された。頭には大王のハンカチを巻いたままであった。
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