レムリ家の追放と低予算映画への移行
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「ユニバーサル・ピクチャーズ」の記事における「レムリ家の追放と低予算映画への移行」の解説
カール・Jrが映画製作の近代化や、製作から上映までの垂直統合などを進めた時期はちょうどアメリカが大恐慌の底に落ち込んだ時期に重なっており、この時期の大規模投資はきわめてリスクが大きなものとなってしまい管財人の管理下に置かれてしまう。映画館チェーンは解体されたが、カール・Jrはなおも配給から製作までを支配していた。 レムリ家によるユニバーサル社支配の終焉は1935年末、1929年に大成功した『ショウボート』を、ブロードウェイでの舞台化の際の俳優を起用してさらに贅沢にリメイクしようとしたときに訪れた。株主の間では、以前からカール・Jrの費用のかかる映画製作に対する警戒は存在し、1935年初頭に巨額を投じた西部劇『黄金』(Sutter's Gold)が興行に失敗して以来警戒心が高まっていた。彼らはレムリ家が製作費の借入を行わない限り『ショウボート』の製作を開始することは許さないと反発した。ユニバーサル経営陣は製作費にあてるため、レムリ家の所有するユニバーサル映画の経営権を担保にして75万ドルをスタンダード・キャピタル(Standard Capital Corporation)から借入れざるをえなかった。これはユニバーサル社の26年の歴史で初めての映画製作のための借金であった。製作費は様々なトラブルから予定より30万ドルも超過し、手元の運転資金のなくなったユニバーサルにはスタンダード・キャピタルに返す金もない状態であった。スタンダード・キャピタルは抵当権を流し、1936年4月2日に経営権を掌握した。1936年版の『ショウボート』は大成功し、今日でもミュージカル映画史上最高の作品として高い評価を得ている。しかし、こうした好評はレムリ家を救うことはできず、彼らは自分たちが創業した会社から追われることになる。 スタンダード・キャピタルの社長・ジョン・チーヴァー・カウディン(John Cheever Cowdin)はユニバーサルの社長および取締役会会長となり、映画製作費に対し大なたを振るった。ウィリアム・ワイラーやマーガレット・サラヴァンといった名監督やスターらとの関係や契約も打ち切られ、彼らはユニバーサルを去る。第二次世界大戦のはじまったころには、ユニバーサルは西部劇、メロドラマ、連続活劇などの低予算映画や、ユニバーサル得意の怪奇映画の低予算の続編などを細々と製作している状態となった。ユニバーサル・カートゥーン・スタジオも経営陣交代を期にユニバーサルの元を離れ、「ウォルター・ランツ・プロダクションズ」として独立し、ユニバーサルにカートゥーン映画を提供し続けた。 この時期、ユニバーサルのドイツ子会社で若いソプラノ歌手を起用した軽いタッチのミュージカルをプロデュースして成功を収めてきたジョー・パスターナクがアメリカに亡命し、同様の映画をユニバーサルで展開した。10代の歌手ディアナ・ダービン(Deanna Durbin)はパスターナクのアメリカでの最初の映画『天使の花園』(Three Smart Girls, 1936年)を大成功に導き、破産状態のユニバーサルを救った。1930年代後半のユニバーサルを存続させたスターを一人挙げるとすれば、まちがいなくダービンであろう。しかしダービンが大きくなりそれまでの10代の少女役をこなせないようになり大人の女優への転換を図ろうとしたとき、スタジオは13歳のグロリア・ジーン(Gloria Jean)と契約し、それまでパスターナクのミュージカル映画でダービンが演じてきた役をジーンに演じさせた。ジーンはビング・クロスビー、W・C・フィールズ(W. C. Fields)、ドナルド・オコナー(Donald O'Connor)らと共演している。 経営危機の時代のユニバーサルには安定したスター俳優が少なく、他のスタジオの契約俳優を借りたり、フリーの俳優を雇用したりといったことが日常であった。ジェームズ・スチュワート、マレーネ・ディートリヒ、マーガレット・サラヴァン、ビング・クロスビーらはこの時期ユニバーサルの複数の映画で仕事をしたスター俳優たちである。スター俳優にはラジオから進出した者(W・C・フィールズ、エドガー・バーゲン(Edgar Bergen)、アボットとコステロ(バッド・アボット Bud Abbott とルー・コステロ Lou Costello の2人組コメディ俳優)など)もいた。特にアボットとコステロの軍隊慰問映画『凸凹二等兵の巻』(Buck Privates、1941年)は大ヒットとなり、バーレスク芸人出身の「凸凹コンビ」はアメリカの国民的大スターとなって、ダービンの軽ミュージカル映画で息をつないでいたユニバーサルの経営を支えた。 戦時下のユニバーサルでは、プロデューサーのウォルター・ウェンジャー(Walter Wanger)と監督フリッツ・ラングのコンビによる映画も製作されたが、『Cobra Woman』『Frontier Gal』などといったセクシー女優の活躍する秘境冒険ものなどが上映スケジュールの大半を占めていたユニバーサルでは目立たない存在であった。1930年代末から1940年代半ばにかけての時期も、ユニバーサルの観客と言えば近隣の小さな映画館に通うような観客が主であり、スタジオはこうした観客のためにコメディや連続活劇などの低予算映画を多数製作していた。アクション活劇の『Dead End Kids』シリーズや『Little Tough Guys』シリーズ、冒険コメディの『Baby Sandy』シリーズ、ヒュー・ハーバート(Hugh Herbert)出演のコメディ映画シリーズ、フランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・狼男・透明人間・ミイラ男などの登場する怪奇映画シリーズ、ベイジル・ラスボーン主演のシャーロック・ホームズもの、グロリア・ジーンやドナルド・オコナー、ペギー・ライアン(Peggy Ryan)らティーンエイジ俳優主演の青春ミュージカル、ラジオドラマから生まれたサスペンス映画シリーズ『インナー・サンクタム・ミステリーズ』(Inner Sanctum Mysteries)などが挙げられる。こうした低予算映画中心のラインナップであったため、ハリウッドのメジャー映画スタジオの中では三色法によるテクニカラー方式を使った映画製作を最後に導入したスタジオとなった。ユニバーサル最初のテクニカラー映画は1942年のジョン・ホール(Jon Hall)およびマリア・モンテス(Maria Montez)主演のスペクタクル映画シリーズ『アラビアン・ナイト』シリーズであった。1944年にクロード・レインズとネルソン・エディ主演でリメイクされた『オペラの怪人』でもテクニカラーが使用された。
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