レパートリー・録音
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「ユージン・オーマンディ」の記事における「レパートリー・録音」の解説
コレッリ、バッハ(オルガン作品を自ら管弦楽版に編曲して演奏もしている)から現代まで幅広いレパートリーを持ち、同時代の作曲家の紹介にも熱心で、ラフマニノフ、バルトーク、シェーンベルク、バーバー、ブリテン、ショスタコーヴィチ、メノッティ、ヴェーベルン、ペンデレツキなどの作品の世界初演・アメリカ初演を行なっている。1978年の来日公演では5種類のプログラムを用意してツアーを展開、幅のあるレパートリーを披露している。 録音に積極的な指揮者であり、ミネアポリス時代の1930年代前半から1982年まで膨大な量の録音を行なった。フィラデルフィア管で音楽監督に就任後RCAに本格的な録音を開始、44年コロムビア・レコードに移籍。68年にRCAに復帰。晩年にはEMIやテラーク、デロスにも録音を残している。ヴァイオリニスト時代も含めると、アコースティック録音、電気録音、ステレオ録音、ディジタル録音を残したという点で、極めて稀な演奏家といえる。オーマンディは若き日にCBSラジオで放送指揮者を務めたが、その時に時間感覚を体得、その感覚が後の録音の際に大いに役立ったという。 68年のRCA復帰については、それまで契約していたコロムビアにニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督のレナード・バーンスタインが迎えられた時、バーンスタインの録音に関しては彼自身に曲目の選択権を与えるという待遇であったため、その余波でオーマンディの自身の録音に関する発言権確保が危惧される状況になった(オーマンディとバーンスタインの希望曲目が仮に重なれば、オーマンディがコロムビア側から曲目変更を求められる可能性があった)。その状況の中、RCAがオーマンディにより幅広い曲目選択権を認めるという条件を提示し、オーマンディの復帰にこぎつけたといわれている。ただし、RCA復帰後の録音曲目にはコロムビア時代に録音したものも多く、この条件が十全に履行されたのかどうかは定かではない。 交響曲、管弦楽曲を積極的に録音したのはもちろんのこと、協奏曲録音でも知られ、各時代の有名奏者また若手奏者たちと多くの共演盤を残している(最後の公式録音も1982年にフィラデルフィア管を率いてヨーヨー・マと共演したショスタコーヴィチとカバレフスキーのチェロ協奏曲。それぞれ第1番)。オーマンディの巧みな伴奏ぶりは高く評価されているが、それがかえって「独自の芸術を持たない」といった評価を受ける一因ともなっているようである。 日本でのオーマンディ録音のCD化の際には彼のレパートリーの中核に偏る傾向があったが、20世紀末期~21世紀に日本のBMGファンハウス(RCAレーベル)からまとまった復刻がなされ、オーマンディのレパートリーの幅が以前より広く知られることになった。 欧州出身者(ただし指揮活動は渡米後)には珍しく歌劇の指揮にはほとんど興味を示さなかった。唯一の例外は「こうもり」で、1951年にメトロポリタン歌劇場を振ってライブ(1月)スタジオ(12月)2つの録音(ともに英語訳詞版)を残したほか、自ら編曲を施した組曲版が存在する。それとは別に序曲は何度も採り上げており、ヨハン・シュトラウスの楽曲はハプスブルク帝国に生まれ育ったオーマンディならではの得意レパートリーである。 一方、声楽を伴うオーケストラ作品では、ヴェルディの「レクイエム」(1964年、コロムビア)、ラフマニノフの合唱交響曲「鐘」、プロコフィエフのカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」などを指揮した。ヴェルディはオーマンディ唯一の録音であるが、ラフマニノフは1954年 (コロムビア) と1974年 (RCA) に録音しており、プロコフィエフも1945年の世界初録音盤 (コロムビア) と1974-75年盤 (RCA) の2種のスタジオ録音のほか、フィラデルフィア管弦楽団の定期演奏会でも採り上げている。 フィラデルフィアを中心に活躍したため客演先は限られたが、アメリカのメジャーオーケストラには客演し、ヨーロッパではウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やバイエルン放送交響楽団などと共演を重ねた。特にウィーン・フィルからは「古典派の大家」として評価された。また、ロンドン交響楽団とはドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」を録音している。
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