レコード針の世界ブランドへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:11 UTC 版)
「ナガオカトレーディング」の記事における「レコード針の世界ブランドへ」の解説
1971年(昭和46年)には社名を「株式会社ナガオカ」に改め、1973年(昭和48年)になると、自社製のダイヤモンドを先端に取り付けたレコード針の製造を開始する。使用素材をこれまでのサファイアからダイヤモンドにすることで、音質の良さを最大限にまで引き出し、「音のナガオカ」として高品位ブランドの栄誉を手にするまでになる。同時にこのころからオーディオアクセサリーの製造・販売を開始する。 ナガオカのオーディオブランドであるジュエルトーン「宝石が奏でる音階」が発足するのはこの頃の事である。 この時ナガオカは、業績の数十%に匹敵する額を投じて日本中のレコード店及びオーディオショップにレコード針と自社製品の陳列用にデラックスなショーケースをイージーオーダーで配布していった。小規模店舗から大規模な店舗まであらゆるタイプのショーケースを配布し他社製品の駆逐と自社ブランドの独占を実行に移していった。これが図に当たり瞬く間に先駆者である企業が倒れていき、ナガオカの敵は存在しなくなった。このパフォーマンスは創始者である、長岡栄太郎の持論である「他社は交換針を部品と考えているが、私は商品と考える」と言う言葉を具現化したといって良い。 そして1984年(昭和59年)5月には、ダイヤモンドレコード針の生産数が月産100万本を達成するまでになる。 同時に当時のオーディオ雑誌、FMファンやレコパル等に毎号1ページから2ページ分の広告を載せる様になり、TBSの土曜日夜8時に会社発足からの悲願であった冠スポンサーとしてマンダム・サントリー等と肩を並べてCMを全国に放映するようになる。また、山形のFM放送権利を取得していた企業と言う事は余り知られていないが、当時は権利は持っていてもFM放送自体が企業に利益をもたらすと言う考えは無かった為、実際には放送事業そのものには着手していない。この当時はNHK FMとFM東京の2社しか存在していなかった時代の事である。 その最中、ナガオカは世界的にも前例の無いリボン式カートリッジの開発に着手する。リボン式とはカートリッジの内部構造を銅線では無く極薄の銅板を巻くと言う形状を持つカートリッジである。基本技術は金箔を製造する過程における技術の応用と言われているが現在では失われた技術であり、ナガオカの関係者においてもその製造工程を完全に把握している者は少ないと言われている。完成披露は晴海で行なわれていたオーディオフェアにおいて一般公開されかなりの反響であったと言う。ただし、生産数と販売期間はきわめて短く生産完了の背景にはあまりにも生産コストが高すぎる事等から製品化された3モデル及び試作段階の2モデルを最後に生産及び販売を終了している。早すぎた登場が悔やまれる製品であり、主要部品にボロンをいち早く取り入れていたがこれが裏目となった。ボロンは現在でも加工が容易とは言えない硬質金属であり当時のカートリッジにおける採用はオーディオメーカーの大半が有効である素材と知りながら加工の難しさから回避していた現実がある。カートリッジメーカーとして名高いortofonやSHURE等も採用を見送っていたのである。
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レコード針の世界ブランドへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 17:28 UTC 版)
「ナガオカ (企業)」の記事における「レコード針の世界ブランドへ」の解説
1971年(昭和46年)には社名を「株式会社ナガオカ」に改め、1973年(昭和48年)になると、自社製のダイヤモンドを先端に取り付けたレコード針の製造を開始する。使用素材をこれまでのサファイアからダイヤモンドにすることで、音質の良さを最大限にまで引き出し、「音のナガオカ」として高品位ブランドの栄誉を手にするまでになる。同時にこのころからオーディオアクセサリーの製造・販売を開始する。 ナガオカのオーディオブランドであるジュエルトーン「宝石が奏でる音階」が発足するのはこの頃の事である。 この時ナガオカは、業績の数十%に匹敵する額を投じて日本中のレコード店及びオーディオショップにレコード針と自社製品の陳列用にデラックスなショーケースをイージーオーダーで配布していった。小規模店舗から大規模な店舗まであらゆるタイプのショーケースを配布し他社製品の駆逐と自社ブランドの独占を実行に移していった。これが図に当たり瞬く間に先駆者である企業が倒れていき、ナガオカの敵は存在しなくなった。このパフォーマンスは創始者である、長岡栄太郎の持論である「他社は交換針を部品と考えているが、私は商品と考える」と言う言葉を具現化したといって良い。 そして1984年(昭和59年)5月には、ダイヤモンドレコード針の生産数が月産100万本を達成するまでになる。 同時に当時のオーディオ雑誌、FMファンやレコパル等に毎号1ページから2ページ分の広告を載せる様になり、TBSの土曜日夜8時に会社発足からの悲願であった冠スポンサーとしてマンダム・サントリー等と肩を並べてCMを全国に放映するようになる。また、山形のFM放送権利を取得していた企業と言う事は余り知られていないが、当時は権利は持っていてもFM放送自体が企業に利益をもたらすと言う考えは無かった為、実際には放送事業そのものには着手していない。この当時はNHK FMとFM東京の2社しか存在していなかった時代の事である。 その最中、ナガオカは世界的にも前例の無いリボン式カートリッジの開発に着手する。リボン式とはカートリッジの内部構造を銅線では無く極薄の銅板を巻くと言う形状を持つカートリッジである。基本技術は金箔を製造する過程における技術の応用と言われているが現在では失われた技術であり、ナガオカの関係者においてもその製造工程を完全に把握している者は少ないと言われている。完成披露は晴海で行なわれていたオーディオフェアにおいて一般公開されかなりの反響であったと言う。ただし、生産数と販売期間はきわめて短く生産完了の背景にはあまりにも生産コストが高すぎる事等から製品化された3モデル及び試作段階の2モデルを最後に生産及び販売を終了している。早すぎた登場が悔やまれる製品であり、主要部品にボロンをいち早く取り入れていたがこれが裏目となった。ボロンは現在でも加工が容易とは言えない硬質金属であり当時のカートリッジにおける採用はオーディオメーカーの大半が有効である素材と知りながら加工の難しさから回避していた現実がある。カートリッジメーカーとして名高いortofonやSHURE等も採用を見送っていたのである。
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