レコード童謡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:59 UTC 版)
童謡運動時代(1918~1928頃)の童謡は『赤い鳥』『金の星』などの童謡童話雑誌を中心に発表されていた。また、戦後に童謡の創作・発表の中心的な場となったのはラジオやテレビの放送であった。一方、昭和初期からレコードの普及に従って、レコード会社は作詞家・作曲家・少女歌手などと専属契約を結んで新作童謡を発表し始め、1930年ごろから終戦前後までの童謡は、主にレコードにより発表された。通常はそれを「レコード童謡」と呼んでいる。 レコード童謡は、理念に支えられていた童謡運動時代の童謡や、公共性という建前を持つ放送に支えられた戦後の童謡と比較すると、作者の誠意や理念にかかわらず本質的に「商品」としての性質が非常に強い、という特徴がある。芸術性や児童文化的な高度性を追求していた大正期の童謡運動と比較すると、広く売れることを第一義とするレコード童謡には、珍妙なオノマトペや過度な感傷主義に頼った低俗的な作品が多く出現した。 そのため、児童文化の世界における「レコード童謡」という言葉には、この時代にレコードで発表された童謡、という意味だけでなく「レコード会社主導で大量生産され、子供におもねた、芸術的価値の低い大衆的童謡」という含みがある。このような大衆的童謡に対する芸術派の作家たちのプライドが、「レコード童謡」と言う言葉に対する侮蔑的なニュアンスに含まれているといえる。 作曲家の服部公一は、レコード童謡の大流行により、志の低い、商業主義的な、「小市民性と通俗性に満ちた」童謡が出回って、大正期の『赤い鳥』童謡時代から続いてきた清々しい理想は崩れていった、と評し、『お猿のかごや』や『かわいい魚屋さん』をそのようなレコード童謡の代表として挙げている。また、サトウ・ハチローも1953年に朝日新聞紙上で本歌を批判している。サトウは、「あまりにもひどい童謡がハンランしてる」とし、その一例として「エッサエッサ...」や「ヤットコドッコイホイサッサ...」など本歌の囃し部分を取り上げ、「不必要なはやしことばを、むやみにくっつけたウタ...[中略]...も、よいウタとはぜったいに言えないものの一つの形だ」 と評している。海沼實の作品全体もレコード童謡として特徴付けられることが多い。
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