レコード発売 - 消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:30 UTC 版)
「スネークマンショー」の記事における「レコード発売 - 消滅」の解説
皮肉にも、前述のイベント前に決まっていたYMOのアルバム『増殖』(1980年6月5日発売)への参加により、スネークマン・ショーはラジオ時代よりもずっと多くのファンをつかむことになる。本アルバムはオリコンチャート初登場1位を記録する大ヒットになり、それまでスネークマン・ショーを知らなかった世代を直撃し、スネークマン・ショーは本格的なブレイクとなった。アルファレコードからスネークマン・ショー単独でアルバムを出さないかとオファーを受け、1981年2月に細野晴臣を共同プロデューサーに迎えたファースト・アルバム『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー』(帯に大書きされたコピーから通称『急いで口で吸え』)」を発売、関係者の誰も予想していなかったほどの大ヒットを記録する。同年にセカンド・アルバムの『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』を発売。本作の発売前から、3人それぞれが次のステップに進みたいと、セカンドにしてスネークマン・ショー最後のアルバムと申し合わせていた。同アルバムも大ヒットし、スネークマン・ショー人気は絶頂期を迎えたが、3人の意見が食い違うことも多くなり、小林が脱退する。しかしスネークマン・ショーのあまりの反響の良さから、さらなるリリースを求めるファンの声によって番外編的に急遽『スネークマンショー海賊盤』を発売。海賊盤としてカセットのみのリリースであった(後年、LPとCDでも発売)。カセットならではの意匠ということでコンドームの箱そっくりのパッケージで発売して物議を醸した。1983年、小林不参加で『ピテカントロプスの逆襲』をリリース。その後、編集版などが国内外でリリースされたが、スネークマン・ショーは自然消滅した。
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