自然消滅後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:42 UTC 版)
沢田は本格的にソロ歌手へ転向、萩原はシングル『ブルージンの子守唄』をリリースする傍ら、俳優活動を本格化させ、残りのメンバーはそのまま「井上堯之バンド」へ移行する。 しかし、これは『初めての涙』以降、一度も「PYG」名義でのレコード発売がなされていないことに加え、1972年夏の「日劇ウエスタン・カーニバル」以降、PYGとしての主だった活動がない(1972年12月の「日劇ウエスタン・カーニバル」には「沢田研二と井上堯之グループ」として出演)という状況が生んだ結果であり、正式に解散が発表されたわけではない。1975年頃までは、PYGのオリジナルやレパートリーを積極的にコンサートに取り上げたり、雑誌インタビュー記事などで沢田が井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」と表現し「1人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っていたことから、1973年以降もしばらくは彼らの帰属意識もPYGにあったと見られる。のちにオリジナルメンバーの岸部が脱退し俳優に転向する頃までは、萩原健一が参加できればPYGとしての活動も続行する心づもりがあったようである。 事実、1974年5月27日放送の『夜のヒットスタジオ』には久々に沢田と萩原という同バンドのツインボーカルを揃えた企画が組まれ、出だしは「沢田研二と井上堯之バンド」として登場したものの、途中で萩原が加わった時点でテロップが「PYG」に変わり、ラストシングルとなった「初めての涙」などを演奏した。PYGとしての再結成は行われていないが、萩原健一・沢田研二ともに各々のソロ・コンサートでたびたびPYGの楽曲を取り上げている。1975年には、沢田の日比谷野音のコンサートに萩原が飛び入りした。1978年には、名古屋で行われていた萩原のコンサートに沢田が飛び入りで出演、翌日、ナゴヤ球場で行われていた沢田のコンサートに萩原が飛び入り参加し、共に「自由に歩いて愛して」を歌って共演が実現している。また沢田がヒット・シングル『勝手にしやがれ』で第19回日本レコード大賞を受賞した際の授賞式には、萩原と岸部がザ・タイガースの元メンバーらとともにステージに上がり沢田を胴上げ、バックを担当した井上堯之バンドの井上・大野を加えたPYGのメンバー中5人が揃って同じステージに上がった。1981年1月22~25日に日劇で行われた「最期のウエスタンカーニバル」において、グループ・サウンズ全盛期の代表的バンドが再結成し往年の楽曲を披露した。スパイダースとして井上と大野、タイガースとして沢田と岸部が参加、テンプターズは再結成せず萩原が自身のバンド「Don juan Rock'N'Roll Band」(ドラムスは大口と原田)を率いてトリで参加した。フィナーレでは他の出演者たちも加わり全員で萩原の『ローリング・オン・ザ・ロード』(大野が作曲、内田裕也が競作)を歌った。ステージ中央に沢田・萩原・井上・大野が並び、岸部・大口・原田もステージ上にいたことから、PYGの元メンバー全員が揃った。 「ジュリーとショーケンの2大アイドルスターによるツインボーカル」というコンセプトは大きな話題となり、それなりにコンサートも盛り上がったものの、実際の客席においては、それぞれのファンの間で熾烈な争いが繰り広げられた。沢田がボーカルを取っている時に萩原のファンがタンバリンなどを叩いて妨害したり(実際2枚組ライブアルバム『FREE with PYG』の『アイ・ゴナ・リーヴ・ユー』の曲中、沢田が萩原のファンに対して「タンバリンやめて!」と呼びかける模様が収録されている。)、また萩原が歌っている時に沢田のファンが大声でおしゃべりをするなど、嫌がらせの応酬が繰り広げられることも多々あった。岸部によると、互いのファンのライバル意識がネックになってコンサートの客足も悪かったことがあったという。 また、日比谷野音をはじめ各種ロックフェスティバルにも出演するが当時の硬派なロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、その嫌悪感から猛烈な非難を浴び、「GSの残党」「商業主義」と徹底的に嫌われ、空き缶やトマトが投げつけられることがあった。しかし、PYGには井上・大野・岸部といったGS時代から演奏力に定評のあるメンバーがいたことから、ミュージシャンの間では一目置かれており、後年においてもいくつかのオリジナル曲は再評価されている。 彼らのコンサートは2-3部構成であったり、合間にゲスト演奏やトークコーナーが挟まったり、当日のセットリスト(アンコールを含む)がパンフレットにあらかじめ記載されているなど、それまでの歌謡曲の「リサイタル」形式を踏襲したステージ構成が当たり前のように行われることが多かった。PYGのコンサートは、老舗の渡辺プロダクションが取り仕切っていたために、とりわけその傾向が強く、合間に「ジュリー・コーナー」「ショーケン・コーナー」が設けられ、それぞれが持ち歌を続けて披露する場面があった。そのため、萩原の参加が難しくなり、「沢田研二と井上堯之バンド」での活動が多くなってもそれほど違和感無く受け入れられていった経緯もあるが、この事が、PYGのロックバンドとしての過小評価に結びついている側面もある。 ライブでは『ブラック・ナイト』や『ギミー・シェルター』など、ディープ・パープルやフリー、ローリング・ストーンズの曲を好んで演奏していた(2枚組ライブアルバム『FREE WITH PYG』で聴くことができる)。また、キング・クリムゾンの『エピタフ』など、プログレのレパートリー(大野の志向による)や、ハードロックのブラック・サバス『パラノイド』(岸部の志向)などもレパートリーとしていた。
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