ユダヤ人家系、拷問、強制収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:42 UTC 版)
「ピエール・ヴィダル=ナケ」の記事における「ユダヤ人家系、拷問、強制収容所」の解説
ピエール・ヴィダル=ナケは1930年7月23日、パリ7区で弁護士リュシアン・ヴィダル=ナケとマルグリット・ヴァラブレーグの間に生まれた。ヴィダル=ナケ家は、南東部のアヴィニョンを中心として、従来、教皇領の飛び地であったコンタ・ヴネサン(フランス語版)に住んでいた「教皇のユダヤ人」の家系で、同じ家系に音楽家のダリウス・ミヨー (1892-1974)、離婚の合法化と政教分離法の成立に貢献した政治家・社会運動家のアルフレッド・ナケ(フランス語版)(1834-1916) がいる。 1939年、ピエールが9歳のときに第二次世界大戦が勃発し、翌年からユダヤ人の社会的階級を低下させ、市民権を剥奪することを目的とした一連の法律(ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法)が施行され、ユダヤ人弁護士の排除に関する1941年7月16日付法律により、父リュシアンは弁護士の仕事を続けることができなくなった。一家はユダヤ教の宗教実践とは縁遠くライック(非宗教)で熱心な共和派、ドレフュス擁護派であった。ピエール・ヴィダル=ナケは後年、「1941年末か1942年初めの頃に父から聞いたドレフュス事件のことは、私の人生に深く刻まれることになった。私が政治、道徳および歴史を学んだのもドレフュス事件を通してであった」と語っている。父リュシアンはレジスタンスに参加したが、パリ陥落後に一家でマルセイユに移った。1944年5月、両親がナチス・ドイツにより逮捕され、拷問を受けた挙句、アウシュヴィッツ強制収容所に送られ、殺害された。後に彼は「歴史家としてひたすら象牙の塔に立てこもって研鑽を積むのとは違い」、特にアルジェリア民族解放戦線 (FLN) の活動家らに対するフランス軍の拷問を告発することになるが、「歴史家は市民生活に参加しなければならない。ご存知のように、私の父は強制収容所に送られる前にマルセイユでゲシュタポから拷問を受けた。フランス人将校や警察官がインドシナやマダガスカルで、そして後にアルジェリアで同じように拷問を繰り返しているのかと思うと身の毛がよだつ。私の行動はひとえにこの絶対的な嫌悪感から生じている。これはある意味で愛国心である」と語っている。 1947年にバカロレアを取得した後、パリのアンリ4世高等学校および後にマルセイユのティエール高等学校の高等師範学校文科受験準備クラスで学んだ。この間、シュルレアリズムの作家(アンドレ・ブルトン、ルネ・シャール、アントナン・アルトー)を中心に文学に深い関心を寄せる一方、アナール学派の歴史学者マルク・ブロック(1944年、ナチス・ドイツにより銃殺)の特に『奇妙な敗北』に深い感銘を受け、歴史学者を志す契機となった。1955年、歴史学のアグレガシオン(一級教員資格)(および古典文学の中等教育教員適性証書)を取得した。また、後の1974年に文学博士号を取得した。
※この「ユダヤ人家系、拷問、強制収容所」の解説は、「ピエール・ヴィダル=ナケ」の解説の一部です。
「ユダヤ人家系、拷問、強制収容所」を含む「ピエール・ヴィダル=ナケ」の記事については、「ピエール・ヴィダル=ナケ」の概要を参照ください。
- ユダヤ人家系、拷問、強制収容所のページへのリンク