ユダヤ人増加とユダヤ人迫害の再開
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「ヨゼフォフ」の記事における「ユダヤ人増加とユダヤ人迫害の再開」の解説
三十年戦争後、コサックの首領(ヘーチマン)ボフダン・フメリニツキーによるユダヤ人大虐殺から逃れてきた東欧のユダヤ人難民が大量にプラハに押し寄せてきた。1663年にはオスマン帝国との戦争でハンガリーとポーランドから逃れてきたユダヤ人難民も押し寄せてきた。さらに1669年にはレオポルトによりウィーンを追放されたユダヤ人たちがプラハへ逃れてきた。こうしてプラハのユダヤ人人口は17世紀末には1万1500人に達した。当時世界最大規模のユダヤ人共同体であったとみられる。 しかしこのためにプラハで反ユダヤ主義が強まり、ユダヤ人迫害政策が再開されることとなった。1650年には1618年以前から住んでいた場所以外にユダヤ人が住むことは禁止され、そうした地域に住んでいるユダヤ人は立ち退かされた。1726年にはカール6世により「移住令」が発令され、ユダヤ人隔離が徹底された。また同年「相続法」が発令され、ユダヤ人は家父長のみが妻帯を許されると定められた。これにより家父長ではないユダヤ人男性は国外でなければ結婚できなくなった。ユダヤ人の家庭生活は大きく歪められ、ゲットー内に私生児が増加し、こうした子供らはゲットー内で一種の賤民のようになってしまった。しかもこの法令は長く効力を発揮し、19世紀半ばまで廃止されなかった。 大の反ユダヤ主義者である女帝マリア・テレジアのユダヤ人政策は苛烈を極めた。彼女の勅令により1745年3月末までにユダヤ人はプラハから出て行かなければならなくなった。しかしユダヤ人がプラハから出て行ったことで経済が急速に悪化したため、三年後にはマリア・テレジアは10年間の期限付きでプラハにユダヤ人が暮らすことを認めざるを得なくなった。これにより6000人のユダヤ人が戻ってきたが、それ以外のユダヤ人はそのまま外国で暮らした。マリア・テレジアは戻ってきたユダヤ人に「寛容税」と称する莫大な税を課した。プラハのゲットーはユダヤ人が追放されていた間に荒廃し、「寛容税」のせいで再建もままならなかった。しかも1754年にプラハのゲットーで大火があり、多くの家屋が消失し、火事場泥棒のプラハ市民によって激しい略奪を受けた。
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