ムールトリー・クリーク条約
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「セミノール戦争」の記事における「ムールトリー・クリーク条約」の解説
1823年、政府は、領土の中央部の居留地にセミノールを入植させることを最終的に決めた。条約を取り決める会合は1823年9月の上旬にセントオーガスティンの南のムールトリー・クリークで予定された。セミノールらの主な代表にはネアマスラが選出され、およそ425名のセミノールが会合に出席した。そこで交渉された条約に関する諸条件では、セミノールは、合衆国の保護のもとに自分たちを置き、およそ400万エーカー(1万6000平方キロメートル)の居留地と引き換えに、フロリダの土地に対するすべての主張を取り下げることが強制された。居留地は、現在のオカラの北部からタンパベイの南端までのラインの、フロリダ半島の中央を駆け下りるものだった。キューバやバハマ諸島からの商人との接触を防ぐため、境界は両海岸から内陸部に設置された。しかしながら、ネアマスラと他の5人の酋長らは、アパラチコーラ川沿いに彼らの村を持つことが許された。 ムールトリー・クリーク条約の下では、彼らが平和であり法を遵守する限りは、アメリカ合衆国政府がセミノールを保護することが義務付けられた。政府は、1年間セミノールに農機具、牛、および豚を分配し、彼らに居留地に移動するための旅費とそれにまつわる損失を補償して、セミノールが新しい作物を植えて収穫するまで食料を提供することになっていた。20年の間、部族に1年あたり5,000USドルを支払って、また、政府は20年間、通訳官、学校、および鍛冶を提供することも約束した。それと同様に、セミノールは道路が居留地内に敷設されることを許容しなければならず、どんな逃亡奴隷または他の逃亡者も逮捕して、彼らを合衆国当局に返却しなければならなかった。 条約の実現は遅れた。政府が本気で彼らを居留地に動かそうとしていることをセミノールに示すために、1824年前半、歩兵の4中隊が駐屯するブルック砦が現在のタンパの場所に設立された。しかし6月までに、条約の主な作者でそれを実行しようと準備していたジェームス・ガズデン(en:James Gadsden)は、セミノールは条約について不満であり、再交渉するのを望んでいることを報告した。新しい戦争の恐怖はゆっくりと忍び寄った。7月、デュヴァル知事は民兵を動員し、タラハシーとミカズキの酋長にセントマークスで彼と会うよう命令した。その会合で、彼は、1824年10月1日までに居留地に動くようにセミノールに命令した。 セミノールは10月になってもまだ居留地に出発していなかった。デュヴァル知事は彼らを動かすために、セミノールに改訂した補償金を支払い始めた。また、彼は、配給されるためのタンパベイのブルック砦に送ることが約束された。ようやくセミノールは居留地に動き始めたが、彼らの一部は、1年以内に、スワニーとアパラチコーラ川の間の彼らの元の家に戻った。セミノールの大部分は、1826年まで居留地にいたが、彼らは順調ではなかった。彼らは、新しい畑を開墾して栽培しなければならず、成長した作物は干ばつに見舞われた。数名のセミノールが餓死したと報告された。ブルック砦の指揮官のジョージ・M・ブルック大佐とデュヴァル知事の両者は、ワシントンに空腹のセミノールのために助けを求める手紙を書いたが、しかしその要求は、セミノールがミシシッピー川の西に動かされるべきであるかどうかに関する討論によって止められた。その結果、5か月の間、セミノールへの救援物資はひとつも提供されなかった。 白人との単独の衝突はあったが、セミノールたちはゆっくりと居留地に入植した。現代のオカラの場所の居留地担当期間の近くにキング砦が建てられ、1827年前半までに、陸軍は、セミノールが居留地に入ってフロリダは平和になったと報告することができた。この平和は5年間保たれた。その間、セミノールに対してミシシッピー川の西部に送るべきという要求が繰り返された。セミノールは、特に彼らがクリーク同盟に参加することを示唆するそのような移動には反対された。セミノールはフロリダを彼らの故郷と主張し、彼らにはクリーク族とひとつも接触がないと否定していたが、ほとんどの白人は、フロリダにその頃移動していたセミノールを、単にクリーク族と見なした。 逃亡奴隷の状況は、セミノールと白人の間に継続する焦燥であった。セミノールと奴隷の捕縛人は、奴隷の所有権についての口論をした。フロリダの新しい農園は、セミノールを離れて逃れてきた奴隷の人口を増加させた。インディアンの暴動、そして/あるいは奴隷の反逆の可能性が心配されたので、デュヴァル知事は追加の連邦政府軍をフロリダに要求した。その代わりに、キング砦は1828年に閉鎖された。居留地で食物が不足し、獲物を見つけるのがより困難になったセミノールは、以前よりも頻繁に放浪するようになった。1828年には、セミノールの宿敵のアンドリュー・ジャクソンはアメリカ合衆国大統領に選出されもした。1830年に、議会はインディアン移住法を可決した。セミノールに関するすべての問題は、彼らをミシシッピー川以西に移動させることによって解決されることになった。
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