ビアトルバージ事件
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「マツーシュカ・シルベステル」の記事における「ビアトルバージ事件」の解説
詳細は「ビアトルバージ事件(ハンガリー語版)」を参照 1931年9月12日23時30分、ブダペスト=ヘジェシュハロム=ウィーンを結ぶ9両編成の特急列車がブダペスト東駅を出発した。当時、列車には乗務員10人に加え、座席車と寝台車あわせて105人の乗客が乗り込んでいた。そして13日0時20分、トルバージ(現在のビアトルバージ(ハンガリー語版))の鉄道高架橋を通過中、仕掛けられていた爆弾が爆発した。運転士は非常ブレーキをかけたものの間に合わず、機関車、荷物車、座席車および寝台車4両のあわせて6両が脱線し、26メートル下に転落した。乗務員および乗客のうち22人が死亡し、17人が重傷を負いながらも救助された。その他にも多数の負傷者があった。現場は地元憲兵隊によって確保され、間もなくブダペストから派遣された憲兵および警察による捜査本部が設置された。現場検証では右橋脚の鉄骨およそ4mが完全に吹き飛ばされていることが明らかになった(後に300m離れた住宅の庭で発見された)ほか、爆発物の残骸も回収された。この自家製爆発物はおよそ2mほどの大きさで、ガス管を用いた着火装置が接続され、軍用・工業用として普及したエクラジット(英語版)爆薬が1.5kgから2kg程度格納されていたと推測された。着火装置は銅線で線路に接続され、通過する列車の重量を感知して爆発する仕組みになっていた。 さらに、「翻訳者」(A fordító)なる名で書かれた次のような声明が残されていた .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}労働者諸君!これより我々は、諸君のあらゆる権利を剥奪した資本家への反抗を開始する!毎月のように諸君の苦境を耳にする。我々の同志はあらゆる場所にいるからだ。働くべき時は過ぎ、我々と共に立つべき時が来た。資本家どもは全ての代償を払うことになる。恐れるな、燃料はまだ残っている(翻訳者)Munkások! Nincs jogotok, hát majd mi kierőszakoljuk a kapitalistákkal szemben. Minden hónapban hallani fogtok rólunk, mert a mi társaink mindenhol otthon vannak. Nincs munkaalkalom, hát majd mi csinálunk. Mindent a kapitalisták fizetnek meg. Ne féljetek, a benzin nem fogy el. (A fordító) この内容から共産主義者の関与が疑われた。摂政ホルティ・ミクローシュは緊急閣議を経て共産主義者によるテロ行為と断定、戒厳令が敷かれることとなった。当時、ウォール街大暴落に端を発する世界恐慌の影響がハンガリー国内にも社会的緊張や政情不安という形で現れていたほか、赤色政権と対峙した記憶も依然として鮮明だったため、かねてよりホルティやカーロイ・ジュラ(ハンガリー語版)首相は共産主義勢力への懸念を強めていたのである。 事件直後、乗客名簿には掲載されていなかったウィーン在住の実業家、マツーシュカ・シルベステルが現場付近で目撃された。事情聴取では非常に雄弁で、この時点では容疑者とされていなかったため、すぐに解放された。しかし、当局はしばらくの後に彼が爆薬、ガス管、ヒューズなどを購入していたことを突き止めた。10月7日、マツーシュカが地元警察に容疑者として逮捕された。彼は捜査員に「『レオ』がやるべきことをやれと囁いたんだ」(Leó súgta, hogy meg kell tennem)と語り、トルバージでの犯行を認めたばかりか、かつて類似の破壊活動を試みたことまでも明かしたのである。マツーシュカはユーターボーク事件のほか、1930年12月31日(ノイレンバッハ(ドイツ語版))と1931年1月31日(マリア・アンツバッハ(ドイツ語版))に起こった鉄道破壊未遂への関与を認めた。 オーストリアでの裁判にて、マツーシュカは『レオ』なる謎の人物からウィーンを爆破せよとの命令を受けたために犯行に及んだと語った。彼が精神を病んでいることは明らかだったが、刑事責任はあるものとされた。1932年6月17日、ユーターボークおよびトルバージの鉄道爆破事件に対し、懲役6年が宣告された。一方、ハンガリー側ではトルバージ事件に対して欠席裁判において死刑が宣告された。ただし、オーストリアの死刑制度が廃止されていたこともあり、1936年にハンガリーへと送還された際、判決が終身刑へと減刑され、ヴァーチ刑務所にて収監された。 犯行動機は明らかになっていない。精神病から生じた妄想の果ての犯行、鉄道爆破に性的興奮を覚えていた、政治的意図に基づくテロ行為だった、などの推測が成されている。 この事件はマツーシュカの単独犯行と言われているが、後の調査では共犯者が存在する可能性も示唆された。また、戒厳令が1932年末まで続いたことや関係者の利害関係を根拠に、当局が共産主義勢力の一掃や権力基盤の強化を目的として事件を政治的に利用した、あるいは直接の関与を行ったなど、何らかの陰謀の存在を想像する者もいた。事実、1932年には共産党幹部サライ・イムレ(ハンガリー語版)とフュルスト・シャンドール(ハンガリー語版)の2人が戒厳令下で逮捕・処刑されている。
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