バブル景気到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:12 UTC 版)
80年代に入ると1982年(昭和57年)に東北新幹線と上越新幹線の営業運行が開始され、高速道路も1985年(昭和60年)に関越自動車道が全線開通するなど全国的に交通網の整備が進み、大量輸送時代が訪れる。 1987年公開の映画『私をスキーに連れてって』のヒットや、団塊ジュニア世代が青年期に差し掛かっていたこと、バブル景気によって消費が好調だったことなどが重なってスキーブームが再来した。背景要因には他にも週休二日制の一般化、スキー用品の低価格化、企業の多角経営によるスキー産業(不動産、スキー用品)への参入、既存のスキー場の拡張、新規のスキー場の営業開始などがある。レジャー白書によれば、最盛期であった1993年には、スキー人口は1860万人にまで増加した。なおこの当時はまだスノーボードは一般化していなかった。 JRのスキー臨時列車「シュプール号」が設定されたのもこの頃で、国鉄末期の1986年に運転を開始、関東・中京・近畿から長野県・新潟県をメインに、近畿からは山陰へも、関東からは東北方面へも運行された。寝台特急「北斗星トマムスキー/ニセコスキー」が運行されていたのもこの時期である。同じ時期に国鉄北海道総局~JR北海道では札幌や千歳空港からトマム・富良野・ニセコへのリゾート特急を、東武鉄道では南会津へのスキーヤー向け夜行列車「スノーパル」の運行を開始している。 大都市からスキー場へのツアーバスも多数運行されたが、この当時のスキー場へのアクセスは自家用車が多かったため、大都市からスキー場エリアへの高速道路や並行する幹線道路は断続的な渋滞が発生していた。たとえば関越自動車道では当時は東京外環自動車道が未開通だったこともあって、通常の金曜の深夜にかかわらず50km以上の大きい渋滞が生じたり、都内の環八通りにおいては、東名高速東京ICから関越道東京側入口となる練馬ICまで15km程度の距離であるにもかかわらず、3時間~5時間かかることもよくあった(深夜の出発にも拘わらず大井町 (埼玉県)付近で夜が明けることもあった)という。 ブームの真っ只中である1990年前後には林間学校や修学旅行(特に高校)がスキーという学校もかなりあった。 スキー人口の増加に伴い、当時非常に高価であったスキー用品は大量生産によって低価格化が進み、ブーム以前は10万円程度だったスキーセットがディスカウントストア等で2万円程度になるなど安価で購入できるようになったことも流行を後押しした。またスポーツショップのCMソングも冬の風物詩として定着した。白い雪の上でも目立つ派手でカラフルなスキーウェアも一般化した(ゲレンデ美人)。 この当時の人気スキー場ではリフト・ゴンドラの待ち時間が数十分から1時間というのも珍しくなかった。また当時はスキー人口に対して宿泊施設の供給が追い付かず、ロッジの予約が取れない、取れたとしても相部屋ですし詰めで食事も貧弱、などといったことも常態化していた。ブームの時期がバブル期に重なっていたこともあり、新スキー場が多数オープンし、既存のスキー場ではゲレンデの拡張や既存リフト・ゴンドラの架け替えなどが相次いだ。1993年には千葉県船橋市に屋内スキー場として日本最大であったららぽーとスキードームSSAWSが開業し、2002年に閉鎖、のちに解体されている。 その頃、各地のスキー場付近の高原エリアにリゾートマンションが急速に建設され、販売されるとすぐに売り切れとなった。新潟の湯沢町は例となる。それらの急なリゾートマンションの建設によってその地域での水不足が心配されることもあった。 1987年制定のリゾート法も一連の動向に拍車をかけた。
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