バブル期以降・晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:41 UTC 版)
1986年(昭和61年)頃、かねてから政商・小佐野賢治のようになりたいと公言していた石井は、政財界とのパイプを作り上げ、力を発揮していった。その一つとして、岸信介の依頼で平和相互銀行の乗っ取りに関わる。当初石井は、平和相互銀行側に立場を置いていたことにも構わずこれを実行し、多くの謝礼と平和相互銀行の岩間カントリークラブ開発の所有権を獲得した。 1987年(昭和62年)2月、一和会系の白神英雄組長が射殺され、その一週間後に山一抗争は終結。石井は抗争の終結に注力した。 岩間カントリークラブを元に東京佐川急便社長渡辺広康からの多額の資金集めに成功した石井は1989年(平成元年)よりゴルフ場会員資格保証金預かり証と引き替えに野村證券・日興證券を取り引き窓口に東急電鉄株の買い占めを行い、約8億円の利益を得た。東京佐川急便事件でも暗躍した。 1990年(平成2年)10月、病気により引退。稲川会会長を稲川裕紘に譲って堅気に戻った。翌年の1991年(平成3年)9月3日に病死し、東京都大田区の池上本門寺で葬儀が執り行われた。参列者は全国各地の組織トップを含め、6,000人以上であった。
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