ハリー・ポッター着想と困窮
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「J・K・ローリング」の記事における「ハリー・ポッター着想と困窮」の解説
1990年6月、エクセター大学時代の恋人がマンチェスターに移り住んでいたのでそこに一緒に暮らそうと考えていた。週末を使ってマンチェスターでフラット探しをしたが見つからず、延々と続く英国の田園風景を眺めながら4時間かけてロンドンへ戻る列車に座っていた。自分と同じように寂しげな黒と白のフリージアン種の牛たちをじっと見つめているうちに、突然アイディアが浮かんできた。何がきっかけだったのかはわからないが、目の前に「ハリーや魔法学校のイメージ」がはっきり浮かんできた。この男の子は自分が何者なのか知らず、魔法学校への入学許可証をもらうまで自分が魔法使いだと知らないという設定がパッとひらめいた。一つのアイディアに夢中になったのは初めてだった。ペンも紙もなかったため、これらを頭の中ですべて思い浮かべていった。主人公のこと、通う学校、そこで出会う人々――。ロンドンに着く頃にはロン・ウィーズリーとハグリットを思いついていた。この段階では名前はついておらず、後から情報を集めて思いついて行った。もっとも時間をかけて考えたのが学校そのものと、その雰囲気だ。場所はスコットランドを舞台に選んだ。ローリングは自分の部屋へ戻ってから、列車で考えていたことを思い出しては、安物の薄っぺらいノートに一心不乱に書き留めていった。これがハリー・ポッターの最初の草案となった。 仕事はマンチェスター商工会議所で派遣秘書の職が見つかり、その年が終わる頃にはロンドンから引っ越してくることができた。ハリーとの出会いは退屈な暮らしに喜ばしい変化が訪れ、ローリングが彼の冒険物語について書いたメモはすぐに靴箱いっぱいになった。この頃から7巻のシリーズにすることを決めていた。 1990年12月30日に母アンが45歳で亡くなる。10年に及ぶ闘病生活だった。その死はローリングの心に深刻な影響をもたらし、執筆中だった本の方向性にも及んだ。打ちひしがれてマンチェスターに戻ってもそこには行き場のない人生が待っているだけであった。しかも恋人との間にも険悪な空気が漂い始め、派手な喧嘩をしたあと、部屋を飛び出して郊外のディズバリーの小さなホテルに1人で泊まった。そこで思いついたのがクィディッチだった。 翌1991年に、ポルトガルの英語教師としての職を得た。日中はコーヒーバーに居座って原稿を書いていた。ポルト在住中5ヶ月目バーで出会った男性と同棲する。その後すぐに妊娠するが流産となる。1992年に27歳で結婚。しかしその前にはすでに二人の関係には亀裂が入っていた。それから数週間後再び妊娠する。妊娠期間中はそれまでになくハリー・ポッター執筆に時間を費やすようになった。 1993年7月、長女ジェシカを出産したが、その4ヶ月後に離婚した。この時父ピーターは再婚していたため、妹のダイが住むエディンバラに娘とともに移り住んだ。ダイはこの時完成していた第3章までの原稿を読み夢中になった。 1993年12月社会保障局で生活保護と住宅手当を申請し、69ポンドの手当を得た。友人に600ポンドの借金もした。幅木のネズミの音に耐えられず新しいアパートを見つけようとしたが住宅手当を理由に次々と断られた。最終的にサウス・ローン・プレイス七番地に引っ越した。この家のキッチンテーブルで『賢者の石』を書き上げることになる。 1994年頃から貧困と心労のため深いうつ病になり、「自殺も考えた」ことがあると英北部エディンバラ大学の学生誌に明かした。この時の経験が、ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンターのもととなった。ローリングは義理の弟が買い取ったサウス・ブリッジとロイヤル・マイルの交差点にあるカフェ、ニコルソンズでコーヒーをすすりながら原稿を書き進めていった。 1994年の暮れには秘書の仕事を見つけたが、15ポンド以上収入があると手当から控除されてしまうためそれ以上稼げなかった。この頃スコットランドで教職を得るため、現代語の公立学校教員免許状(PGCE)取得のためのコースを受けた。1995年の夏にはスコットランド教育産業局から補助金を受け取ることができた。
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