ニューヨーク・メッツ時代(1980年 - 1990年)
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「ダリル・ストロベリー」の記事における「ニューヨーク・メッツ時代(1980年 - 1990年)」の解説
1980年のMLBドラフトで1巡目(全体1位)にニューヨーク・メッツから指名を受け入団。 1982年にAA級で34本塁打・97打点・100四球・45盗塁を記録。 1983年5月6日のレッズ戦でメジャーデビュー。前半戦は打率.202・8本塁打と振るわなかったが、後半戦で打率.294・18本塁打と調子を上げ、シーズン通算で打率.257・26本塁打・74打点を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出された。 1984年はオールスターゲームに初めて選出され、先発出場を果たした。シーズンでは26本塁打・97打点を記録した。同年ドワイト・グッデンがメジャーに昇格し、共にチームの若き主力となる。 1985年は5月に故障で離脱するが、6月に復帰。7月20日のアトランタ・ブレーブス戦で1試合7打点をマークするなど後半戦は打率.305・21本塁打・60打点を記録、シーズン通算で打率.277・29本塁打・79打点の成績だった。 1986年はオールスターゲーム前日のホームランダービーでウォーリー・ジョイナーと同点優勝。27本塁打・93打点を記録して、チームの地区優勝に貢献。ヒューストン・アストロズとのリーグチャンピオンシップシリーズではシリーズ記録となる12三振を喫するが、第5戦でノーラン・ライアンから本塁打を放つなど2本塁打を記録し、チームも4勝2敗でアストロズを下してリーグ制覇。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは第7戦で本塁打を放ち、17年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たした。 1987年は打率.284・39本塁打・104打点・36盗塁を記録し、30本塁打・30盗塁を達成。同年チームメイトのハワード・ジョンソンも36本塁打・32盗塁を記録し、史上初の同一シーズン同一チームから複数の達成者が誕生した。またかつてのライバル、デービスも37本塁打・50盗塁で30-30を達成している。 1988年は打率.269・39本塁打・101打点・29盗塁を記録、最多本塁打のタイトルを獲得し、チームの2年ぶりの地区優勝の原動力となる。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズではチーム最多の6打点を記録するが3勝4敗で敗退し、リーグ優勝はならなかった。MVPの投票ではカーク・ギブソンに次ぐ2位に入った。 1989年は不振で打率.225・29本塁打・67打点に終わる。 1990年は37本塁打・108打点と復活し、MVPの投票で3位に入る。
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ニューヨーク・メッツ時代
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「スティーブ・トラクセル」の記事における「ニューヨーク・メッツ時代」の解説
メッツでは、移籍1年目の2001年から4.00台の防御率で2ケタ勝利を挙げる活躍。2002年には、規定投球回に到達した防御率としては、自己二番目の数値を残し、翌2003年には16勝を挙げた。2004年も、まずまずの成績を残したが、2005年は背中の痛みが原因となり、8月まで投げられない状態が続いた。復帰後初の登板(8月26日)では、サンフランシスコ・ジャイアンツを8回2失点に抑え、勝ち投手になったが、その後はパッとせず、いまひとつの成績に終わった。2006年は、勝ち星こそ15勝だったものの、投球内容はイマイチで、15勝を挙げられたのは、メッツの強力打線の援護を受けたからである。
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ニューヨーク・メッツ時代
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「ドン・アース」の記事における「ニューヨーク・メッツ時代」の解説
前述の通り1988年の後半戦では好投を続けたが、オリオールズはアースが当時34歳となっていたことや怪我の再発のリスクを恐れて、10月に解雇される。フリーエージェントとなったアースは実に4ヶ月半に渡って新たな所属先を捜し求めた。 1989年2月20日、ようやくニューヨーク・メッツとの契約に漕ぎ着ける。メッツでは以前同様リリーフを務めることとなり、開幕戦で2回を無失点に抑えたのを皮切りに、前半戦で29試合に登板し、防御率2.55と前年の後半戦の好調を新天地でもキープした。ところが、またもや後半戦では失速。20試合の登板で防御率6.00という炎上振りだった。シーズンでは抑えのランディ・マイヤーズに次ぐチーム2位の49試合登板となったが、他の主だったリリーフ投手が揃いも揃って安定した投球を見せたため、最終的には存在感を示すことは出来なかった。メッツも他の投手の投球を見て不要と判断したのか、メッツでのプレイはこの1年間だけとなった。
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ニューヨーク・メッツ時代
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「デーブ・キングマン」の記事における「ニューヨーク・メッツ時代」の解説
1975年2月28日に金銭トレードでニューヨーク・メッツに移籍。1年目は36本塁打、88打点、1976年はオールスターゲームに初めて選出され、先発出場を果たした。シーズンでも37本塁打、86打点を記録。1977年6月15日にボビー・バレンタインらとの交換トレードでサンディエゴ・パドレスに移籍。
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