ニューヨーク・ラディカル・ウイメン
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「シュラミス・ファイアストーン」の記事における「ニューヨーク・ラディカル・ウイメン」の解説
1967年10月、ファイアストーンはニューヨークに拠点を移し、仲間とニューヨーク・ラディカル・ウイメン(NYRW)を創設した。この1967年は「新しい政治のための全国会議」(the National Conference for New Politics)の最初で最後の全米大会が開かれた年だった。これに参加したファイアストーンは、ジョー・フリーマンとともに女性会派を結成し、本会議で自分たちの要求を提起しようとした。彼女たちの決議案はフロアディスカッションを設けるほど重大なものではないといわれ、議題の最後に彼女たちの意見文が追加こそされたものの、それに関してディスカッションが行われることはなかった。議長であったウィリアム・ペッパーは発言の機会を待つ女性の存在を認めず、代わりに「忘れられたアメリカ人、アメリカンインディアン」についての発言者を求めた。ファイアストーンをはじめ5人の女性が抗議のため演壇に駆け寄ると、ペッパーはファイアストーンの頭を軽く叩き、「冷静になれよ、お嬢ちゃん。私たちは女性問題よりもっと大事なことを話し合わなければならないんだ」と言ったという。 ファイアストーンとフリーマンは大会中に「フリースクール」へ通っていた女性や、女性向けセミナーに参加した女性たちを招集して会合をもった。これがシカゴで初めての女性解放を目指す団体に発展し、シカゴのウエストサイドにあるフリーマンのアパートメントで毎週の会合がもたれたことから、ウエストサイド・グループとして有名になった。数ヶ月後には、フリーマンが「ボイス・オブ・ウイメンズ・リベレ―ション・ムーヴメント」というニューズレターの発行を始め、全米(と海外の数ヶ国)で流通したことから、彼女たちの新しい運動はこのレターの名前で呼ばれるようになった。このグループに参加した多数の女性たちは、後に「シカゴ・ウイメンズ・リベレ―ション・ユニオン」をはじめとして様々なフェニスト団体を組織した。
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