ニューヨーク・メッツ以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 23:30 UTC 版)
「ボビー・ボニーヤ」の記事における「ニューヨーク・メッツ以後」の解説
1992年に当時メジャー最高額となる契約でニューヨーク・メッツに移籍。メッツは同時期にエディ・マレー、ビンス・コールマン、ブレット・セイバーヘイゲン(交換トレードでの獲得)とも高額契約を結ぶ。中でもマレー、ボニーヤ、ハワード・ジョンソンの三人のスイッチヒッターでクリーンナップを固めるという構想であったが、これらはメッツにとっても、またボニーヤにとっても転落の始まりであった。 1991年の5位(6チーム中)からの巻き返しを図ったメッツであったが、1992年は変わらず5位。7チームとなった1993年には新球団フロリダ・マーリンズよりも下の最下位に終わった。東中西三地区に再編され、232日間に及ぶ長期ストライキのためシーズンが途中で終わった1994年こそ5チーム中3位であったが、ペイロール(年俸総額)の高い割には良い成績とは言えなかった。ボニーヤも地元記者とのトラブルもあり、成績は奮わず、1995年終盤にボルチモア・オリオールズに放出された。 この1995年は28本塁打、99打点。翌1996年にも28本塁打、116打点の活躍を見せ、1997年にはかつての恩師・リーランド率いるマーリンズに移籍した。 球団創設5年目のマーリンズはこの年、初のワールドシリーズ進出を果たし、クリーブランド・インディアンスを破って初の栄冠に輝いた。ボニーヤもこの年17本塁打、96打点と活躍を見せ、ワールドチャンピオンの栄誉に輝いた。しかし、マーリンズもまた深刻な財政難のため、栄冠に貢献した選手を抱えることができず、ボニーヤも翌1998年にマイク・ピアッツァらとのトレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍(ピアッツァもすぐのちにメッツに移籍)。この年の不振もあって、1999年にはメッツに放出された。 1999年にメッツはワイルドカードでプレイオフ進出を果たし、ワールドシリーズ進出を賭けてアトランタ・ブレーブスと対戦するが敗北。そのシリーズの第6戦で、途中交代したボニーヤはチームメイトのリッキー・ヘンダーソンとロッカーでトランプに興じたため、メッツを解雇された(一方のヘンダーソンにはお咎めなしであったが、ヘンダーソンも翌2000年途中にシアトル・マリナーズに放出された)。メッツとの間には契約が残っていたが、残りの590万ドルを2011年以後に支払うことで合意し、これによってボニーヤは2011年から2035年までの間に、利息を含む約3,000万ドル(正確には2,983万1,205ドル)の25分の1を毎年7月1日に手にすることとなる。 2000年はそのブレーブスと契約するが、不振のため一年で解雇され、セントルイス・カージナルスでプレイした2001年を最後に引退している。 ナ・リーグ在籍時に記録した247本塁打は、ナ・リーグのスイッチヒッターのレコードである。
※この「ニューヨーク・メッツ以後」の解説は、「ボビー・ボニーヤ」の解説の一部です。
「ニューヨーク・メッツ以後」を含む「ボビー・ボニーヤ」の記事については、「ボビー・ボニーヤ」の概要を参照ください。
- ニューヨーク・メッツ以後のページへのリンク