ボビー・ボニーヤとは? わかりやすく解説

ボビー・ボニーヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/23 20:55 UTC 版)

ボビー・ボニーヤ
Bobby Bonilla
ピッツバーグ・パイレーツ時代
(1988年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区
生年月日 (1963-02-23) 1963年2月23日(62歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手, 三塁手, 一塁手
プロ入り 1981年 アマチュア・フリーエージェントとしてピッツバーグ・パイレーツと契約
初出場 1986年4月9日 ミルウォーキー・ブルワーズ
最終出場 2001年10月7日 ヒューストン・アストロズ
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ロベルト・マーティン・アントニオ・ボニーヤRoberto Martin Antonio "Bobby" Bonilla , 1963年2月23日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークブロンクス区出身の元プロ野球選手。(外野手または三塁手一塁手)。右投両打。

主に1980年代後半から1990年代にかけて活躍した。先祖はプエルトリコ人。

来歴

プロ入りからパイレーツ時代まで

1981年MLBドラフトでは指名されず、同年にドラフト外でピッツバーグ・パイレーツに入団。

1985年のシーズンオフに行われたルール・ファイブ・ドラフトシカゴ・ホワイトソックスに移籍し[1]1986年4月9日シカゴ・ホワイトソックスでメジャーデビューを果たしたが、7月に交換トレードでパイレーツに復帰。両球団合計で138試合に出場するが、打率.256、3本塁打と目立った活躍はなかった。当時パイレーツは下位を低迷。財政難もあって高給取りのベテランを放出していた。名将ジム・リーランド[2]を迎え、チームの若返りを図り、当時23歳のボニーヤもそれにマッチすることとなる。

1987年、主に三塁手として起用されたボニーヤは打率.300、15本塁打、77打点と活躍。1988年には159試合で打率.274、24本塁打、100打点の活躍でチームの2位浮上に貢献。また、この年初のオールスター出場を果たした。1990年には外野(ライト)に転向し、レフトバリー・ボンズセンターアンディ・バンスライクとともにナショナルリーグ屈指の外野トリオを形成し、チームは1990年、1991年に2年連続地区優勝を果たす。特に1990年には32本塁打、120打点を記録し、MVPに選ばれたボンズに引けを取らない大活躍をした。1991年も本塁打こそ18本に終わったが100打点を記録した。

しかし、もともと財政難のチームでは年俸が高騰した選手を抱えきれず、ボニーヤもフリーエージェント(FA)となった。ボニーヤの放出後、パイレーツは1992年にもナ・リーグ東地区(当時)優勝(3連覇)を果たすが、全て西地区優勝チームにプレイオフで敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。また、1993年以降はプレーオフはおろか、勝率5割からも遠ざかり、2012年までアメリカプロスポーツ史上初となる20年連続シーズン負け越しを記録した。

メッツ時代以後

1991年12月に当時メジャー最高額となる5年総額2900万ドルでニューヨーク・メッツに移籍[3]。メッツは同時期にエディ・マレービンス・コールマンブレット・セイバーヘイゲン(交換トレードでの獲得)とも高額契約を結ぶ。中でもマレー、ボニーヤ、ハワード・ジョンソンの三人のスイッチヒッターでクリーンナップを固めるという構想であったが、これらはメッツにとっても、またボニーヤにとっても転落の始まりであった。

1991年の5位(6チーム中)からの巻き返しを図ったメッツであったが、1992年は変わらず5位に終わり、7チームとなった1993年には新球団フロリダ・マーリンズよりも下の最下位に終わった。東中西三地区に再編され、232日間に及ぶ長期ストライキのためシーズンが途中で終わった1994年こそ5チーム中3位であったが、ペイロール(年俸総額)の高い割には良い成績とは言えなかった。ボニーヤも地元記者とのトラブルもあり、成績は奮わず、1995年終盤にボルチモア・オリオールズに放出された。

この1995年は28本塁打、99打点。翌1996年にも28本塁打、116打点の活躍を見せ、1997年にはかつての恩師・リーランド率いるマーリンズに移籍した。

球団創設5年目のマーリンズはこの年、初のワールドシリーズ進出を果たし、クリーブランド・インディアンスを破って初の栄冠に輝いた。ボニーヤもこの年17本塁打、96打点と活躍を見せ、ワールドチャンピオンの栄誉に輝いた。しかし、マーリンズもまた深刻な財政難のため、栄冠に貢献した選手を抱えることができず、ボニーヤも翌1998年マイク・ピアッツァらとのトレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍(ピアッツァもすぐのちにメッツに移籍)。この年の不振もあって、1999年にはメッツに放出された。

1999年にメッツはワイルドカードでプレーオフ進出を果たし、ワールドシリーズ進出を賭けてアトランタ・ブレーブスと対戦するが敗北。そのシリーズの第6戦で、途中交代したボニーヤはチームメイトのリッキー・ヘンダーソンとロッカーでトランプに興じたため、メッツを解雇された(一方のヘンダーソンにはお咎めなしであったが、ヘンダーソンも翌2000年途中にシアトル・マリナーズに放出された)。メッツとの間には契約が残っていたが、残りの590万ドルを2011年以後に支払うことで合意し、これによってボニーヤは2011年から2035年までの間に、利息を含む約3,000万ドル(正確には2,983万1,205ドル)の25分の1を毎年7月1日に手にすることとなる[4]

2000年はそのブレーブスと契約するが、不振のため1年で解雇され、セントルイス・カージナルスでプレーした2001年を最後に引退している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1986 CWS 75 271 234 27 63 10 2 2 83 26 4 1 2 1 33 2 1 49 4 .269 .361 .355 .716
PIT 63 225 192 28 46 6 2 1 59 17 4 4 3 0 29 1 1 39 5 .240 .342 .307 .649
'86計 138 496 426 55 109 16 4 3 142 43 8 5 5 1 62 3 2 88 9 .256 .352 .333 .685
1987 141 515 466 58 140 33 3 15 224 77 3 5 0 8 39 4 2 64 8 .300 .351 .481 .832
1988 159 681 584 87 160 32 7 24 278 100 3 5 0 8 85 19 4 82 4 .274 .366 .476 .842
1989 163 698 616 96 173 37 10 24 302 86 8 8 0 5 76 20 1 93 10 .281 .358 .490 .848
1990 160 686 625 112 175 39 7 32 324 120 4 3 0 15 45 9 1 103 11 .280 .322 .518 .840
1991 157 680 577 102 174 44 6 18 284 100 2 4 0 11 90 8 2 67 14 .302 .391 .492 .883
1992 NYM 128 506 438 62 109 23 0 19 189 70 4 3 0 1 66 10 1 73 11 .249 .348 .432 .780
1993 139 582 502 81 133 21 3 34 262 87 3 3 0 8 72 11 0 96 12 .265 .352 .522 .874
1994 108 460 403 60 117 24 1 20 203 67 1 3 0 2 55 9 0 101 10 .290 .374 .504 .878
1995 80 351 317 49 103 25 4 18 190 53 0 3 0 2 31 10 1 48 11 .325 .385 .599 .984
BAL 61 263 237 47 79 12 4 10 129 46 0 2 0 2 23 0 1 31 11 .333 .392 .544 .936
'95計 141 614 554 96 182 37 8 28 319 99 0 5 0 4 54 10 2 79 22 .329 .388 .576 .964
1996 159 692 595 107 171 27 5 28 292 116 1 3 0 17 75 7 5 85 13 .287 .363 .491 .854
1997 FLA 153 648 562 77 167 39 3 17 263 96 6 6 0 8 73 8 5 94 18 .297 .378 .468 .846
1998 28 110 97 11 27 5 0 4 44 15 0 1 0 1 12 1 0 22 6 .278 .355 .454 .809
LAD 72 270 236 28 56 6 1 7 85 30 1 1 0 5 29 3 0 37 10 .237 .315 .360 .675
'98計 100 380 333 39 83 11 1 11 129 45 1 2 0 6 41 4 0 59 16 .249 .326 .387 .713
1999 NYM 60 141 119 12 19 5 0 4 36 18 0 1 0 2 19 1 1 16 4 .160 .277 .303 .580
2000 ATL 114 278 239 23 61 13 3 5 95 28 0 0 0 1 37 2 1 51 3 .255 .356 .397 .753
2001 STL 93 198 174 17 37 7 0 5 59 21 1 1 0 0 23 3 1 53 4 .213 .308 .339 .647
MLB:16年 2113 8255 7213 1084 2010 408 61 287 3401 1173 45 57 5 97 912 128 28 1204 169 .279 .358 .472 .830
  • 各年度の太字はリーグ最高

受賞歴・記録

脚注

  1. ^ Andrew Simon (2022年12月3日). “A history of the Rule 5 Draft”. MLB.com. 2023年7月9日閲覧。
  2. ^ のちにフロリダ・マーリンズデトロイト・タイガースでも監督を務め、2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではアメリカ合衆国代表を率いて初優勝に導いた。
  3. ^ 引退から約20年のボニーヤ氏、メッツとの異例契約で今年も1.3億円を手に”. AFPBB News (2020年7月2日). 2023年7月9日閲覧。
  4. ^ 史上最悪のスポーツ契約を「祝う日が来た」 米メディア、毎年受け取る小切手に“皮肉””. Full-Count (2023年7月3日). 2023年7月9日閲覧。

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類

アメリカ合衆国の野球選手 キング・ケリー  ギャビー・クラバス  ボビー・ボニーヤ  クラーク・グリフィス  デーブ・ジョンソン
ロサンゼルス・ドジャース及びブルックリン・ドジャースの選手 マックス・キャリー  ライアン・テリオ  ボビー・ボニーヤ  リック・マンデー  レニー・ハリス
ニューヨーク・メッツの選手 マット・ワトソン  グレンドン・ラッシュ  ボビー・ボニーヤ  フランシスコ・ロドリゲス  デービット・ウエスト
ボルチモア・オリオールズの選手 ルーク・スコット  ジム・ジョンソン  ボビー・ボニーヤ  デーブ・ジョンソン  ダニエル・カブレラ
アトランタ・ブレーブスの選手 ヒュー・ダフィー  キング・ケリー  ボビー・ボニーヤ  デーブ・ジョンソン  ホセ・カペラン
セントルイス・カージナルスの選手 ドン・ブレイザー  ウィルバート・ロビンソン  ボビー・ボニーヤ  トミー・クルーズ  ジョージ・ヘンドリック
シカゴ・ホワイトソックスの選手 ロン・キトル  アレックス・リオス  ボビー・ボニーヤ  トミー・クルーズ  ドウェイン・ワイズ
ピッツバーグ・パイレーツの選手 アル・ロペス  マックス・キャリー  ボビー・ボニーヤ  ジョージ・ヘンドリック  ダン・セラフィニ
フロリダ・マーリンズの選手 ケビン・ブラウン  クリフ・フロイド  ボビー・ボニーヤ  マット・リンドストロム  マイケル・テヘラ

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