【略史】青州に割拠した諸勢力はおおむね二系統に分けられる。一つは公孫瓚が派遣した田楷・劉備に孔融を加えたもの、もう一方は袁紹・袁譚父子とこれに荷担する黄巾賊である。その他、遼東太守公孫度も東萊郡に進出している。黄巾賊の一部は兗州に闖入し、刺史劉岱を殺害するなど猛威を振るったが、のちに曹操の支配下に置かれることになった。公孫瓚系勢力が一掃されると、曹操は袁譚による青州一円支配を恐れ、臧霸に青州・徐州を委ねて彼に対抗させ、ようやく袁紹・袁譚を滅ぼして青州を支配下に置いた。
はじめ曹操・袁紹らが義兵を起こすと、刺史焦和もそれに呼応して洛陽に攻め上った。しかし焦和は臆病な性質であったため、曹操が敗北したと聞いただけで青州に逃走した。青州全土に黄巾賊が蔓延したが抑えることもできなかった。
焦和没後の青州は群雄争奪の地となり、袁紹は臧洪を青州刺史に任命したが、一方公孫瓚は田楷を青州刺史に、劉備を平原国相に任じて斉国に進出させた。青州一円を実効支配したのは臧洪だったが、彼は着任してから二年間で州内の賊徒を鎮圧した。田楷と袁紹は二年間にわたって戦闘し、いずれも百姓たちから略奪したので野原には青草が残らなかった。興平元年(一九四)夏、兗州牧曹操が徐州を侵略すると、田楷は劉備を派遣して徐州を救援させた。ちょうど徐州牧陶謙が死去したため、劉備は徐州牧の地位を襲う。また北海国相孔融も英雄の志を持っていた。遼東太守公孫度の軍勢が海を渡って青州に侵入したとき、孔融は夜襲をかけてこれを撃退し、精鋭を手に入れた。
袁紹は長子袁譚を疎んじており、公孫瓚の死後、彼を都督に任じて青州に出向させた。曹操は上奏して袁譚を刺史に任命した。袁譚の版図はわずか平原郡だけであったが、まず北進して田楷を撃破し、さらに東方に行って孔融を攻撃した。青州の民衆は彼を歓迎して主君と仰いだ。東萊郡では黄巾賊の勢力がとくに強かったが、袁譚は彼らに官位をやって手懐けている。孔融が袁譚に敗れて徐州に逃亡すると、劉備は上奏して彼を青州刺史に推薦した。ただし当時朝廷の実権は曹操が握っており、刺史任官が認められた可能性は考えがたい。
こうして青州から公孫瓚一派が駆逐されたが、袁譚は姦佞の輩を腹心とし、妻の弟に軍勢をやって城の内外で略奪を働かせた。また諸県に将軍を派遣して兵士を徴発させたが、賄賂を出した者は見逃した。貧しい者たちは山野に逃げ隠れしたが、鳥や獣を追い立てるように彼らを追い詰めた。そのくせ初年兵を徴発する期日になっても、部落に安閑として居すわる者を処罰することはできなかった。もともと一万戸あった城邑でも、戸籍に登録された者は数百戸に満たず、租税収入は三分の一にもならなかった。
曹操は袁紹と対立を始めていたが、泰山を中心に青州・徐州を荒らしまわっていた臧霸・孫観・呉敦・尹礼・昌豨らを抱き込み、臧霸に青州・徐州の軍事を委ねて袁譚らに対抗させた。李整が刺史に任命されたのはこのころであろうか。曹操は東方に気兼ねする必要がなくなり、官渡で袁紹を撃ち破ることができた。
袁紹が没すると、袁譚は弟袁尚と仲違いして平原城に楯籠り、曹操に救援を求めた。曹操の軍勢が到着すると袁尚は包囲を解いて去ったが、曹操が鄴を攻撃している隙を突いて袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を占拠し、曹操に違約を咎められると南皮に楯籠った。建安十年(二〇五)正月、曹操は南皮を陥落させて袁譚を斬首した。
青州にはなお管統が楽安太守として残っており、また長広郡でも賊徒の勢力は衰えを見せなかった。そこで曹操は王脩を派遣して管統に帰順を勧告し、長広太守何夔も使者をやって説得したり、軍勢を派遣したりして青州を平定した。また泰山太守呂虔も東萊郡の賊徒を鎮圧している。こうして青州の混乱は収束していった。
【州伯】魯丕 / 王望 / 王龔 / 召休 / 法雄 / 李膺 / 黄琬 / 馮羨 / 羊亮 / 焦和 / 臧洪 / 孫嵩 / 孔融 / 田楷 / 袁譚 / 劉琮 / 李整 / 程喜 / 鍾毓 / 王淩 / 臧艾 / 孫観 / 孫毓 / 石苞 / 朱桓 / 濮陽興 / / / 王仁 / 焦和 / 田楷 / 臧洪 / 孫嵩 / 袁譚 / 孔融 / 李整 / 孫観 / 劉琮 / 陳佐 / 公孫淵 / 魯芝 / 王淩 / 程喜 / 鍾毓 / 諸葛誕 / 臧艾 / 石苞 / 孫毓 / 胡威 / 衛瓘
【州吏】甄宇 / 劉献 / 王脩 / 王基
【領郡】済南国 / 平原郡 / (楽陵郡) / 楽安国 / 北海国 / (平昌郡) / 東萊郡 / (長広郡) / 斉国
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