スレブレニツァ周辺でのセルビア人の犠牲者に関する論争
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「スレブレニツァの虐殺」の記事における「スレブレニツァ周辺でのセルビア人の犠牲者に関する論争」の解説
ボシュニャク人のナセル・オリッチ(Naser Orić)に率いられた武力攻撃によって、セルビア人の間に多数の犠牲者が出たことについては、双方とも認めている。その性質と犠牲者の数についての論争は、虐殺後10周年を迎えた2005年に大きな問題となった。 ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、「セルビアの民族主義政党セルビア急進党は、この地域でムスリム人が数千人のセルビア人に対して犯罪を犯したとする主張を広めるための攻撃的なキャンペーンを張り」、「その目的が1995年7月の犯罪の重要性を低下させることにある」とした。ICTYの検察局による2005年7月6日の発表では、セルビアの当局の主張するこの地域でのセルビア人の死者数は1400人から3500人に増加しており、検察局はこれを「事実に反する」とした。会見では、過去の証拠を引用し、 スルプスカ共和国の戦犯委員会は、ブラトゥナツおよびスレブレニツァ各自治体(後者にはスケラニ)も含まれる)におけるセルビア人の犠牲者の数を、合計で995人とし、うちブラトゥナツでは520人、スレブレニツァでは475人とした。 「セルビア人に対する犯罪究明のためのベオグラード・センター」の所長ミリヴォイェ・イヴァニシェヴィッチ(Milivoje Ivanišević)による「我らの墓の記録」では、殺害されたセルビア人の数を1,200人程度としていた。 スルプスカ共和国内務省の出版による『栄誉ある十字と黄金の自由のために』では、ブラトゥナツ-スレブレニツァ-スケラニ地域でのセルビア人の犠牲者を641人とした。 これらの数値の正確性は疑われている。ICTY検察局は、イヴァニシェヴィッチの著書ではおよそ1200人のセルビア人が殺害されたと推測しているが、殺された人物に関して情報があるのは642人に過ぎないとしている。また、死亡した人々の幾らかを「犠牲者」と呼ぶことにも疑義がもたれている。研究によると、これらの死亡者の多くを軍人が占めていた。ボシュニャク人がスレブレニツァを軍事拠点として、周辺の村々を襲撃したことによって、セルビア人の犠牲者が出たという話は、衝突の性質について述べる文脈の中に表れる。たとえば、クラヴィツァ(Kravica)の村はボシュニャク人の勢力によって、1993年の正教会のクリスマスである1月7日に攻撃を受けた。イヴァニシェヴィッチなど複数のセルビア人の情報源によると、村の353人の住民は「ほぼ完全に破壊された」とされる。実際には、スルプスカ共和国軍の内部資料では、46人のセルビア人が死亡し、うち35人は兵士、11人が民間人となっており、ICTY検察局の調査では、1月7日から1月8日にかけてのクラヴィツァ周辺地域で43人が死亡し、うち13人が民間人であったと見られるとしている。それにも関わらず、この事件はセルビア人による多くの情報源に、ボシュニャク人によってスレブレニツァ周辺で引き起こされた非道な犯罪行為の重要な一例として引用され続けている。クラヴィツァ(Kravica)、シリコヴィチ(Siljkovići)、ビェロヴァツ(Bjelovac)、ファコヴィチ(Fakovići)、シキリチ(Sikirić) の村における破壊と死傷者について、判決では、検察側はボシュニャク人勢力がこれらに対して責任を負うと認められる十分な証拠を提示できなかったとし、その理由としてセルビア人勢力がこれらの村々での戦闘に大砲を使用していたためとしている。ビェロヴァツの事例では、セルビア人は軍用機も使用していたとしている。 この地域のセルビア人の犠牲者に関する更に後の調査は、非党派的で多民族のスタッフで構成され、サラエヴォに拠点を置く「サラエヴォ研究・文献情報活動センター」(en)によるものである。彼らの資料は国際的な専門家によって収集、分析、検査、比較、評価されている。サラエヴォ研究・文献情報活動センターによる、ブラトゥナツ自治体でのセルビア人死者に関する大規模な調査では、その数を民間人199人、軍人424人であるとした。さらに、ブラトゥナツの軍事墓地に埋葬されている383人のセルビア人犠牲者はスレブレニツァのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)の部隊によるものであるとしているが、このうち139人はボスニア・ヘルツェゴビナの他の地域で戦って死亡したものであることを明らかにした。 セルビア人による情報源では、スレブレニツァに拠点を置くボシュニャク人に対抗するセルビア人の要求に従って、安全地帯が設置される前までの期間のセルビア人の犠牲と損害の数を操作している。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)による襲撃は1995年7月のジェノサイドを引き起こした最も重要な要素として表現されている。このような見方は国際的な情報源にも反映され、2002年にオランダ政府が発行した報告では、一連の事件がスレブレニツァ陥落へとつながったとしている(NIODの報告書)。しかしながら、これらの情報源ではこの地域におけるセルビア人の犠牲者の数について誤った資料を引用している。NIODの報告書では、たとえば、クラヴィツァ(Kravica)への襲撃によってその人口の全てが失われたとする誤った情報を反映している。スレブレニツァ攻撃の要因としてこれらの事件を挙げることは、ジェノサイドを正当化しようとする修正主義者の試みであると考えられている。国際連合の事務総長によるスレブレニツァ陥落に関する報告は次のように述べている。 これらの告発が国際的な情報源の中で繰り返されるが、その事実を支持する信頼できる証拠はなく…。セルビア人は、スレブレニツァから周辺のセルビア人への攻撃を繰り返し誇張し、中心となる戦争目的、すなわち地理的に連続し民族的に純粋な領土をドリナ川に沿って確保し、この領域で戦闘に従事する兵士をこの領域から解放して他の地域へと振り向けることに対する非難への弁解としている。これに加えて、この弁解は、ボスニアでの衝突があまりに多くの人々によって長期にわたって見られていたことを通じて、「罪の相対化」の色彩を反映した国際的な活動家らに額面どおりに受け入れられていた。
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