スレブレニツァを巡る戦闘
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「スレブレニツァの虐殺」の記事における「スレブレニツァを巡る戦闘」の解説
この地域やその周辺の東部ボスニア、セルビアから来たセルビア人の軍や準軍事組織は、1992年の初めごろ、数週間に渡ってスレブレニツァを支配下におき、ボシュニャク人を殺害したり追放したりした。1992年5月、ボシュニャク人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は、ナセル・オリッチ(Naser Orić)の指導の下、スレブレニツァの支配権を回復した。 その後、スレブレニツァは、ジェパやツェルスカ、ゴラジュデなどとともに、周囲をセルビア人勢力の支配地域に囲まれた飛び地となった。スレブレニツァを支配していたのは、ナセル・オリッチの率いるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団であった。スレブレニツァ周辺のセルビア人勢力支配地域に対して、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍はスレブレニツァを拠点にして攻撃を加えた。1993年1月、ボスニア共和国軍の支配地域は、ボシュニャク人が支配する南の飛び地ジェパ、および西の飛び地ツェルスカと結ばれた。この時、スレブレニツァを中心とするボシュニャク人支配の飛び地は最大版図の900平方キロメートルに達したが、それでもなお西方のボスニア・ヘルツェゴビナ政府支配下の本土とは結ばれず、スレブレニツァ周辺地域はいぜん孤立して残っていた。ICTYの判決文によると、スレブレニツァは「セルビア人勢力の中に孤立した脆弱な島」であった。 その後数ヶ月間の間、セルビア人武装勢力はコニェヴィチ・ポリェ(Konjević Polje)とツェルスカの村を制圧し、スレブレニツァとジェパを結ぶ回廊を切断し、スレブレニツァ飛び地の面積は150平方キロメートルに縮小した。ボスニア政府側の統制が及ばなくなった地域のボシュニャク人の住民はスレブレニツァの町へと逃げ込み、紛争前は3万5千人程度であった町の人口は、5万ないし8万程度まで増加した。 国際連合保護軍(UNPROFOR)の指揮官であるフランスのフィリップ・モリヨン(Philippe Morillon)将軍は1993年3月にスレブレニツァを訪れた。この時、町は人口過多であり、包囲網により苦境にあった。セルビア人勢力によって水の供給が遮断されたことによってほとんど水がなくなり、人々は間に合わせの発電機で電力不足をしのぎ、食料、医療、その他の生活に必要なものが極限状態にまで不足していた。モリヨン将軍が去る前、将軍はスレブレニツァでパニック状態にある住民を集め、町は国連の保護下にあり、決してスレブレニツァの人々を見捨てたりはしない、と述べた。 1993年の3月から4月にかけて、数千人のボシュニャク人が国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の援助のもとでスレブレニツァを脱出した。サラエヴォのボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府はこの避難に対して、ボシュニャク人が多数派である地域におけるセルビア人勢力による民族浄化作戦を利するものであるとして反対した。セルビア人の当局はなおもスレブレニツァ飛び地の制圧を目指していた。1993年4月13日、セルビア人はUNHCR代表部に対して、ボシュニャク人が降伏しない場合、2日以内にスレブレニツァを攻撃すると警告した。ボシュニャク人は降伏を拒否した。
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