スレブレニツァを巡る戦闘とは? わかりやすく解説

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スレブレニツァを巡る戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:07 UTC 版)

スレブレニツァの虐殺」の記事における「スレブレニツァを巡る戦闘」の解説

この地域その周辺東部ボスニアセルビアから来たセルビア人の軍や準軍事組織は、1992年初めごろ、数週間渡ってスレブレニツァ支配下におき、ボシュニャク人殺害した追放したりした。1992年5月ボシュニャク人主体ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は、ナセル・オリッチNaser Orić)の指導の下、スレブレニツァ支配権回復したその後スレブレニツァは、ジェパツェルスカゴラジュデなどとともに周囲セルビア人勢力支配地域囲まれ飛び地となったスレブレニツァ支配していたのは、ナセル・オリッチ率いボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団であったスレブレニツァ周辺セルビア人勢力支配地域に対してボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍スレブレニツァ拠点にして攻撃加えた1993年1月ボスニア共和国軍支配地域は、ボシュニャク人支配する南の飛び地ジェパ、および西の飛び地ツェルスカ結ばれた。この時、スレブレニツァ中心とするボシュニャク人支配飛び地最大版図900平方キロメートル達したが、それでもなお西方ボスニア・ヘルツェゴビナ政府支配下本土とは結ばれず、スレブレニツァ周辺地域はいぜん孤立して残っていた。ICTY判決文によると、スレブレニツァは「セルビア人勢力中に孤立した脆弱な島」であったその後数ヶ月間の間セルビア人武装勢力はコニェヴィチ・ポリェ(Konjević Polje)とツェルスカ制圧しスレブレニツァジェパを結ぶ回廊切断しスレブレニツァ飛び地面積150平方キロメートル縮小したボスニア政府側の統制が及ばなくなった地域ボシュニャク人住民スレブレニツァの町へと逃げ込み紛争前は35千人程度であった町の人口は、5万ないし8程度まで増加した国際連合保護軍UNPROFOR)の指揮官であるフランスのフィリップ・モリヨン(Philippe Morillon)将軍1993年3月スレブレニツァ訪れた。この時、町は人口過多であり、包囲網により苦境にあったセルビア人勢力によって水の供給遮断されたことによってほとんどなくなり人々間に合わせ発電機電力不足をしのぎ、食料医療その他の生活に必要なもの極限状態にまで不足していた。モリヨン将軍が去る前、将軍スレブレニツァパニック状態にある住民集め、町は国連保護下にあり、決しスレブレニツァ人々見捨てたりはしない、と述べた1993年3月から4月にかけて、数千人のボシュニャク人国際連合難民高等弁務官事務所UNHCR)の援助のもとでスレブレニツァ脱出したサラエヴォボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府はこの避難に対してボシュニャク人多数派である地域におけるセルビア人勢力による民族浄化作戦利するのであるとして反対した。セルビア人当局はなおもスレブレニツァ飛び地制圧目指していた。1993年4月13日セルビア人UNHCR代表部に対してボシュニャク人降伏しない場合2日以内スレブレニツァ攻撃する警告したボシュニャク人降伏拒否した

※この「スレブレニツァを巡る戦闘」の解説は、「スレブレニツァの虐殺」の解説の一部です。
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