スピリチュアリズムとの出会い
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「ウィリアム・ステイントン・モーゼス」の記事における「スピリチュアリズムとの出会い」の解説
1869年、30歳で重病に罹り、治療を受けたスピーア博士一家と親交を結ぶ。スピーア夫人が熱心なスピリチュアリストだったため、初めてスピリチュアリズムに関心を持つ。いくつかの交霊会(霊媒ヒュームにも会っている)に出席するうちに、死後存続について確信を持つようになった。 その後モーゼス自身が霊能力を発揮するようになり、初期は重い物体が動いたり、その場にない品物が突然現れたり(アポーツ)、芳香が漂ったり、モーゼスが空中に浮遊するなどの物理的な現象が起きたが、後に哲学的なメッセージ主体のものへと移行していった。 1870年、再び牧師として働き始めるが、間もなく病気が再発したため牧師を辞職。この頃からスピーア博士の息子の家庭教師を7年続けた。「心霊主義英国協会 British National Association of Spiritualism, BNAS」にも参加。 1871年、ロンドンにある大学の英語教師になる。 1873年、自らの自動書記で、インペレーター(インペラトール)という霊からの通信を受け取り始める。当時のイギリスの心霊主義では、死者の霊との交信が行われ、のちのチャネリングのような未知の上位者との交信はほとんど見られなかったが、例外的にインペレーターは未知の上位者の霊とされた。これについてジョスリン・ゴドウィンは、近代神智学創世期にヘレナ・P・ブラヴァツキーが「ラクソー(ルクソール)同胞団」のマスターとして言及した存在と同様の超越的存在ではないかと指摘した。吉永進一は、当時心霊主義とオカルティズムの境界は現在考えるほど判然としていなかったのではないかと述べ、超越的存在に死者霊をもってすることは、人間中心主義の延長ではないかと指摘している。 1882年、マイヤースと親交を結んでいたが、心霊現象研究協会創設に際しては助言を与えるなど協力し、会員として参加。スピーア博士も共に参加した。 1883年、1871-1882年の間のノート24冊分にのぼる膨大な自動書記から抜粋・編集して、のちに世界三大霊訓の1つと評価されることになる[要出典]『霊訓』を出版。牧師だったモーゼスと、インペレーターと名乗る霊との、既成宗教に関する真剣な論争の記録であるとされている。 1884年、ロンドン心霊協会London Spiritualist Alliance, LSA 設立 1886年、心霊現象研究協会を脱会。協会が現象ばかりを重視することに不満を持っていたが、協会がひとりの霊媒をトリックだと発表したのを機に役員を辞めた。 1889年、病気のため大学の教師を辞職。 晩年は痛風と神経痛、うつ病、全身疲憊、眼病、腎臓病、さらに数回のインフルエンザと闘い、1892年に53歳で死去した。自動書記のノートはマイヤースに遺託。
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スピリチュアリズムとの出会い
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「エマ・ハーディング・ブリテン」の記事における「スピリチュアリズムとの出会い」の解説
直接のきっかけとなった事件は1856年に起こった。エマは米国の劇場に出演するため、母と共に汽船「パシフィック号」に乗って海を渡った。船旅の間に母子は乗務員たちとすっかり親しくなった。 後日、エマはパシフィック号が運んでくる予定の小荷物を受け取りに港に行ったが、「嵐のため船の到着が遅れている」と知らされ、手ぶらで宿に帰った。その晩エマは霊の存在を感じて驚き、母に相談した。すでにハイズビル事件を知っていた母はテーブルの上にアルファベットを書いた紙を置き、エマに霊と交信させた。 得られたメッセージは、「パシフィック号のフィリップ・スミスだ。エマ、私が死んだことを知らせに来た。パシフィック号は遭難して、乗員は全員死亡した。船と乗員の行方については、今後いっさい何の手がかりも得られないだろう」というものだった。エマはメッセージを疑ったまま眠れぬ一夜を過ごし、翌朝霊媒のケロッグ夫人のところに行ってみた。夫人はエマに会うなりトランス状態になり、同じメッセージを語った。パシフィック号の遭難は後に確認されたという。 この事件の後、エマはスピリチュアリズム運動に身を投じ、霊媒能力とパフォーマンスの才能を生かして積極的に交霊会や講演旅行を行った。なお一時期、神智学の創始者ヘレナ・ブラヴァツキー夫人(1831-1891)にも接近するが、すぐに疎遠になっている。
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