スクロヴェーニ礼拝堂装飾絵画
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「ジョット・ディ・ボンドーネ」の記事における「スクロヴェーニ礼拝堂装飾絵画」の解説
ジョットは1305年ごろに後世に最も大きな影響を与えた、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の内部装飾絵画を手掛けた。この礼拝堂は、エンリコ・デッリ・スクロヴェーニが近くにあった自身の教区教会とは別に、一族の礼拝所兼墓所として建てたものだった。この礼拝堂の建築は隣のエレミターニ教会の聖職者たちに驚きをもって受け取られた。スクロヴェーニ礼拝堂はエンリコが家族のために修復した古い邸宅の隣に建てられ、外観はピンクのレンガに覆われたシンプルなものだった。この古い邸宅は現存しておらず、礼拝堂が古代ローマの競技場(アレーナ (arena))の遺跡敷地内に立っているため、現在では「アレーナ礼拝堂」と呼ばれることが多い。 礼拝堂のテーマは救済で聖母マリアが重要視されており、受胎告知と聖母の慈悲に捧げられている。中世イタリアの典型的な屋内装飾としてもよく知られ、西側の壁には最後の審判が、東側の内陣には大天使ガブリエルと聖母マリアとの受胎告知が描かれている。受胎告知は『聖処女マリアの生涯』と『キリストの生涯』を描いた一連の絵画の一部となっている。マリアの生涯はジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが書いた殉教者列伝『黄金伝説』を、キリストの生涯は当時ボナヴェントゥラが書いたといわれていた追随者たち (en:Pseudo-Bonaventura) の著作をもとにして描かれている。しかし一連のフレスコ画はこれらもとになった書物を単に絵画として表しただけではなく、学者たちはこれらの絵画から聖書に対するジョット独自の解釈を多数見出している。 一連のフレスコ画は37の場面から構成されており、側面の壁に上中下三段に分かれて描かれている。最上段には聖母マリアの両親ヨアキムとアンナが描かれ、聖母マリアの生涯を表現した最初の絵画になっている。下の二段にはキリストの生涯が描かれ、『最後の審判』は正面反対側の壁全面に描かれている。チマブーエの作風がビザンティン様式とゴシック様式を併せ持った明確な中世様式であるのに対し、ジョットの作風は彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオの作品のような、立体的で古典的なものだった。チマブーエやドゥッチョの作風とは異なり、ジョットが描く人物像は類型化されたものでも過度に細長く誇張されたものでもなく、それまでのビザンティン様式の影響は見られない。緻密な観察に基づいた三次元的な表情とポーズで描かれ、衣服もそれまでのように規則的に波打ってはおらず自然な形と重さが表現されている。このような新しい絵画表現は、当時ローマで活動していたピエトロ・カヴァリーニによって既に始められていたが、ジョットはこれらの表現をさらに昇華させたため、具象画の新しいスタイルを生み出したという名声はジョットのものとなった。 彫刻のような三次元的陰影で描かれた人物像は自然に配置され、使用されている遠近法とあいまって舞台のセットのような印象を与えている。ジョットによる慎重な人物像の配置は、これらの絵を観る者に、あたかも自分が絵画に描かれている場所に実在しているかのような効果を及ぼす。この劇的な臨場感は新しく絵画にもたらされた特質で、サン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画においてもその萌芽を見ることができる。 一連の絵画のなかで有名な場面が描かれているものに『東方三博士の礼拝』があり、彗星のようなベツレヘムの星が夜空を横切っている様子が描かれている。この彗星はジョットが実際に見た1301年のハレー彗星をもとに描いたといわれており、1986年にハレー彗星の観測用に打ち上げられた探査機ジョットはこの絵画にちなんで命名された。他に有名なものは『キリストへの哀悼』で、この神聖なテーマを描いた絵画では、作品を観るものに哀切の感情を惹起させるために、ジョットはあえて従来のビザンティン風図像学を採用している。
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