ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成
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「ジミ・ヘンドリックス」の記事における「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成」の解説
1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースである。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められ、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。そして、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている。 ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成。1966年10月から活動を始める。この際に名前をジェームズ/ジミー(James/Jimmy)から、ジミ(Jimi)に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe / Stone Free」が全英4位のヒットを記録した“Hey Joe”. Tom Simon's Rock-and-Roll Page. 2009年7月25日閲覧。 。 アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的なインプロビゼーションを披露することにより、ヘンドリックスは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのヘンドリックスの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。後年、ジェフ・ベックは、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏を聴いて)廃業を考えた」と語っている(英国BBCの音楽番組のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日ビートルズやローリングストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたという。この当時から本人の特徴となっていた、大きく歪んだ大音響を駆使する演奏は、後のハードロックの原型という意見がある。現代ではありふれているが、この当時は過激な歪みを前面に打ち出した演奏自体が存在しなかったと言って良い時代にあったという意見がある。 1967年の夏、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州モンタレーで開催された世界初の本格的野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。これは同フェスティバルのイギリスでの世話役だったポール・マッカートニー(ビートルズ)が、「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したためと言われる。ヘンドリックスはモンタレーで、演奏とギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。 イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演などで母国アメリカで成功を収めた後は、アメリカを本拠として活動するようになった。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、1968年にアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。 ヘンドリックスは演奏技術が高かっただけではなく、ギターを歯で弾いたり、あたかも男性器のように扱ったりした末、床に叩き付けて火を放つなど、激しくセクシーなステージアクションも人気の要因だった。また、古い軍服を身につけ(ミリタリー・ファッション)、強くパーマをかけた独特のヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッション面でも注目を集めた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人のエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のヘンドリックスはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多い。マイルス・デイヴィスによれば、ヘンドリックスは世間のワイルドなイメージとは逆だったという。 後年のヘンドリックスは、観客から激しいステージアクションやギター破壊などばかり求められ、演奏に集中できないことに悩んでいたという 黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだった。スライは黒人に受け入れられたが、ジミは受け入れられなかった。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているヘンドリックスの立場を利用したがっていたと言われる。ヘンドリックス自身はあまり政治的な人間ではなかったが、暗殺された黒人指導者キング牧師のために寄付を行ったこともある。ヘンドリックスは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいた(ビリー・コックスの談話)が、マネージメント側はヘンドリックスをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だったといわれる。
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