コーカサス、西アジア諸国との戦争
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「ジャラールッディーン・メングベルディー」の記事における「コーカサス、西アジア諸国との戦争」の解説
1224年から1225年にかけてジャラールッディーンはフジスタン(チグリス川下流近辺の地域)のアッバース朝領に侵入し、略奪とフジスタンの中心都市シューシュタルの包囲を行った。フジスタン侵入の後にバグダードに進軍するが、進軍に先立ってジャラールッディーンはダマスカス・アイユーブ朝の王侯アル=ムアッザムにアッバース朝への攻撃を誘いかけた。書簡には、アッバース朝のカリフ・ナースィルがモンゴル軍を扇動してホラズム・シャー朝を攻撃させたことへの非難が書かれていたが、ムアッザムは攻撃要請には応じなかった。彼は単独で軍事行動を行わなければならなくなったが、寡兵をもって将校クシュ・ティムールが率いる20,000人のアッバース朝軍を破り、イラク北部のダクーカーを攻略した。アッバース朝の援軍要請に応じたイルビルの支配者ムザッファルの進軍を知ると、少数の兵士を引き連れて奇襲を行い、ムザッファルを捕虜とした。結局、バグダード攻撃は行われず、ジャラールッディーンは攻撃先をアゼルバイジャンへと変えた。 アゼルバイジャンへの行軍中に叔父ヤガン・タイシの軍を併合し、1225年にタブリーズを首都とするアタベク政権イルデニズ朝(イル・ドュグュズ朝、イルデギズ朝)を滅ぼした。イルデニズ朝の君主ムザッファル・ウッディーン・ユズベクの妻に占領地の統治を委任し、次いでキリスト教国であるグルジア王国の遠征に向かった。1225年から1226年3月にかけてのグルジア遠征は、タブリーズでの反乱鎮圧のために一時中断されたが、王国の首都ティフリスの占領に成功し、ジャラールッディーンはイスラム世界の防衛者として名を上げた。アイユーブ朝の王侯アル=アシュラフが統治するアフラート(英語版)(ヒラート)に進軍するが、アフラート到着の直後にケルマーンのバラクが反乱を企てている報告を受け、急いでケルマーンに引き返した。ジャラールッディーンの進軍を知ったバラクは改めて臣従の意思を示し、ジャラールッディーンもバラクに許しを与えた。バラクの反乱後は城砦に立て籠もったグルジア王国の残兵とホラズム軍の略奪を嫌うアゼルバイジャンの住民の抵抗に手を焼き、アフラートの攻略は不首尾に終わる。そして、ホラズム・シャー朝の東部にモンゴルの大軍が現れる。 開戦の前、ギヤースッディーンが怨恨のために軍隊を率いて離反する事件が起きるが、ジャラールッディーンは不測の事態に動じなかった。1227年8月26日にイスファハーンの城外でモンゴル軍を迎え撃ち、モンゴル軍の左翼を敗走させるが、勝利後に再度行った突撃はモンゴル軍の伏兵によって阻まれ、ホラズム軍は潰走する。勝利したモンゴル軍の被害も大きく、彼らはイスファハーンへの攻撃を行わずに退却したが、ジャラールッディーンの行方は知れず、廷臣やイスファハーンの市民の中には彼が死んだと考える者もいた。ジャラールッディーンに代わる君主が擁立される直前、彼は民衆の前に姿を現し、彼の姿を見た群衆は歓喜に沸いたという。 一方、コーカサス地方ではジャラールッディーンに対抗するべく、グルジア人、キプチャク人、アラン人などの民族が連合を組んでアッラーン地方の北部に集結しており、その兵力は40,000人に及んだ。ホラズム軍の兵力は連合軍に劣るものであったが、ジャラールッディーンは宰相シャラフ・アル=ムルクの兵糧攻めに持ち込むべきだという提案を却下し、正面から衝突した。連合軍のうち20,000を占めるキプチャク人に対しては、かつて彼らがホラズム軍の捕虜となった時に、ジャラールッディーンが彼らの助命を嘆願した恩を説いて撤退させ、グルジアには両軍の戦士による一騎討ちを提案した。翌日行われた試合ではジャラールッディーン自らが5人のグルジア兵を討ち、その余勢を駆ってグルジア軍に勝利した。
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