コーカサス・ペルシャ戦線
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「ハリル・クート」の記事における「コーカサス・ペルシャ戦線」の解説
詳細は「カフカース戦線(英語版)」および「ペルシャ戦線(英語版)」を参照 オスマン帝国が第一次世界大戦に参戦したとき、ハリル・ベイは、イスタンブールの最高司令部に勤務していた。ペルシャに進出する計画のため、ハリル・ベイ中佐の指揮のもと第5遠征隊が編成され、1914年12月半ばにモースルに向かうべく汽車でイスタンブールを発った。しばらくして、第1遠征隊がキャーズム「ゼイレク」・ベイ中佐の指揮のもと、12月24日にイスタンブールから移動を開始し、アレッポまで汽車で、そこからユーフラテス川を利用してバグダッドへ、シャットルアラブ川を利用してテヘラン方面へ向かう予定であった。 サルカムシュの敗戦のため、第5遠征隊は第3軍の増援部隊とされ、1915年1月半ばにムースルへ向かうのを取りやめ、ウルファからディヤルバクルを通って第3軍に合流するよう命令された。この間、ハリル・ベイはイスタンブールに召還され、後任にベキル・サーミ・ベイ少佐が任命された。 一方、1915年1月4日、バジルゲ国境大隊と、特務機関テシュキラートゥ・マフスーサのオメル・ナージ・ベイ指揮下の部族部隊は、ミヤンドアブの戦いの後、キルクーク郡知事ハリト・エフェンディ指揮下でスルドゥズ (現在のナガデ)-ウルミイェ方面を進んでいた部隊とともに、ウルミイェを占領した。イブラヒム・フェヴズィ・ベイの先遣隊は、1月12日にタブリーズを占領し、オメル・ナージ・ベイもそれに続いた。しかし、1月27日、ソフィアンの戦いで、オスマン軍はロシアのフョードル・チェルノズボフ(英語版)中将の指揮するコサック部隊に撃破され、1月30日にはタブリーズを占領された。 第1遠征隊は、出発から2ヶ月かけ、2月18日にモースルに到着し始めた。3月1日、第3軍は、第1遠征隊をモースルからレワンドゥズ(英語版)を経由しウルミア湖から東進させタブリーズとダゲスタンに向かわせる決定を下した。第1遠征隊は、3月5日にレワンドゥズに向けて出発し、3月14日に到着した。約3週間そこに留まった後、4月4日に出発し、ラヤトに2日間留まり、4月17日にウルミイェに到着した。4月24日にウルミイェから北上し、ディルマンの南のシュールゴール高地に到達し、4月28日、ハーンタフティでロシア軍との最初の戦闘を行った。(ディルマンの戦い(英語版))。 その間、4月17日にシュタク郡のアルメニア人が蜂起し、4月20日には、ワン市内でアルメニア人武装勢力が警察分署やムスリムの家々を攻撃した。県知事のジェヴデド・ベイ (Cevdet Belbez)の指揮する部隊はアルメニア人武装勢力と戦闘を繰り返した (ヴァン攻囲戦)。ディルマンでの攻撃に失敗した第1遠征隊は、5月12日夜、シュールゴール高地を離れ、バジルゲ‐ゲヴァル‐バシュカレ経由でワンに向かった。ロシア軍もコトゥル-サライ経由とバルギリ経由の二方面からワンに向かっていた。このロシア軍の接近のため、ジェヴデド・ベイは、5月16日夜、ワンを放棄して、バシュカレ方面に撤退し、第1遠征隊に合流した。5月31日、メルダーネに到達した第1遠征隊は、行軍中のワン巡回ジャンダルマ師団の部隊を敵軍と間違えて攻撃してしまった。 6月17日、ハリルは大佐への昇進と(新編成の)軍団の司令官への任命の通知を受け、第1遠征隊の指揮権を第44歩兵連隊長レシッド・ベイに委ね、6月19日にビトリスに至った。第1遠征隊の主力はタトワン周辺に在り、ビトリスにいた同遠征隊の支隊は、6月18日にアフラト(英語版)を奪還していた。ハリルは、ビトリスで数日間の休息をとった後、軍団を編成する任務に就いた。マフムード・キャーミル・パシャが指揮する第3軍のうち右翼を構成する第1遠征隊 (アリ・イフサン・ベイ大佐)、第5遠征隊 (ベキル・サーミ・ベイ中佐)、第36歩兵師団 (キャーズム「キョプリュリュ」・ベイ中佐)から混成ハリル軍団が編成され、6月23日夕刻、ハリルの軍団司令部は、ビトリスからタトワンに進出した。7月までに、ハリルの部隊はマラズギルト(英語版)-アフラト線まで進出した。9月20日、混成ハリル軍団は、第18軍団として再編成された。
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