ケネディ大統領の暗殺とは? わかりやすく解説

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ケネディ大統領暗殺事件

(ケネディ大統領の暗殺 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 09:47 UTC 版)

ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、: Assassination of John F. Kennedy)は、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。


注釈

  1. ^ バリー・ゴールドウォーター。共和党上院議員で、翌年共和党大統領候補となり、ケネディ暗殺後昇格した民主党ジョンソン大統領と争い大敗を喫した。その後議会での重鎮として活躍し、1973年8月にウォーターゲート事件で弾劾の発議が可決されて絶体絶命の立場に立たされたニクソンに引導を渡したのがゴールドウオーターであった。
  2. ^ 仮に南部で票が取れなかったとしても、ケネディは東部や北部で安定した支持票で勝利していたであろう、と言われている。
  3. ^ この時のスピーチがケネディの生涯最後のスピーチとなった。
  4. ^ このロイ・ケラーマンが大統領のダラス旅行の警備責任者であった。この2時間後にパークランド記念病院から大統領の遺体を運び出す際に、地元ダラス警察の検視官アール・ローズがテキサス州法に則り地元での司法解剖を要求したのにもかかわらず、拒否して空港への搬送を強行したのは彼であった。
  5. ^ 書籍「ケネディ大統領暗殺事件」では12台だが「ケネディ暗殺50年目の真実」(ビル・オライリー著)では5台となっている。白バイかあるいは後方の報道陣の車を加えての違いと思われる。
  6. ^ Mr.President, you can't say Dallas don't love you ?
  7. ^ That is very obvious.
  8. ^ 大統領のリムジンからは銃弾の破片が回収されており、証拠物件「CE567」および「CE569」と呼ばれている。
  9. ^ この時点でリムジンのブレーキランプが点灯していることが撮影されている。後にウォーレン委員会でグリアーは証言しているが、この時に減速したことが、結果的に狙撃者に狙いを定めやすくしたのではないかという後悔に彼は苛まされることになった。またこのことを後で知ったジャクリーン夫人は激怒したという。
  10. ^ ビル・グリアーは大統領が乗った車に同乗した者では、ジャクリーン夫人以外ではただ1人致命傷を負った場面を目撃している。ただ沿道でこの瞬間を目の前(3メートルくらいの距離)で目撃した人間は何名もいる。ザプルーダー・フィルムでも車の左側で4-5名が確認され、その内1人の男性はすぐに芝生に伏せているし、車の右側では子ども連れの若い夫婦が目撃してすぐに芝生の上に横たわっている。この若い夫婦は、現場にいた地元ダラスのテレビ局のディレクターのジェイ・ワトソンがすぐに地元テレビ局WFAA-TVのスタジオに運び、狙撃から15分後にWFAA-TVが定時番組を中断してすぐに速報をスタジオから報道して、この夫婦をスタジオでインタビューして狙撃の瞬間の様子を聞いている。この夫婦は名前をウィリアム(ビル)・ニューマンとゲイル・ニューマン夫妻で、この時はまだ12時50分前後でケネディの生死も分からない状況であった
  11. ^ クリント・ヒルはケネディが致命傷を負う直前にリンカーンに飛び乗ってケネディを守ろうとしたが、車両が加速したため果たせなかった[12]
  12. ^ この広場の名前の由来はジョージ・ディーリーという男の名前から付けられたものだが、このジョージ・ディーリーは1926年に地元の新聞社を買収して新聞経営に乗りだし、1963年当時は息子のテッド・ディーリーが新聞社の社主であった。その新聞社こそ「ダラス・モーニング・ニューズ」紙で、暗殺当日に黒枠つきの反ケネディの広告を掲載した新聞であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 178P
  13. ^ ただし、声帯を損傷して声を発することが出来なくなる可能性があった。その後、医療現場で治療に従事していた医師や看護婦らによれば、喉元の銃弾の痕について、「当初は身体前側に丸い射入口があったことに間違いない」と証言されており、後に切開されて射出口とされたことを示唆するインタビュー映像や画像が残されている。
  14. ^ この中にフィルムカメラで撮影中に銃声とともにカメラが激しく動いたフィルムがすぐに世界に配信されている。ザプルーダー・フィルムが公開されるまで、暗殺現場での映像資料としてその後長く使われた。
  15. ^ ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。タイム・ライフ社(『ライフ』)がザプルーダー・フィルムを借りた際にフィルムが損傷したためとされる(奥菜、関連文献 参照en:Zapruder film)。欠落の無い完全版のフィルムはRobert J. Grodenが販売するビデオ(「The Assassination Films」)に収録されている。
  16. ^ この各コマに番号を付けたのは当時ウォーレン委員会で作業していたFBIの主席写真分析官のリンダル・シャニーフェルトであった。
  17. ^ マンリッヒャー・カルカーノ・ライフル
  18. ^ いわゆる"バブーシュカ・レディー"とは別人。
  19. ^ 『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』の著者ウイリアム・レモンは、このジェームズ・ターグが頬に受けた流れ弾が原因のコンクリートの破片の話から、それが教科書倉庫ビルから発射された3発の銃弾の一つであるとしている。ジェームズ・ターグが立っていた位置から後方から飛んできた弾であると推定している。
  20. ^ スチームパイプ修理工。44歳。
  21. ^ ただし、ハワード・ブレナンはこの日の午後に行われた警察署での犯人の面通しでは、オズワルドを確認していない。彼は後に大統領暗殺というショッキングな事態に陰謀があるとしたら自分が危なくなると感じたからで、面通しでは結局嘘をついたと認めている。
  22. ^ 本名スターリング・M・ホランド。ユニオン・ターミナル鉄道の管理職で当時陸橋の上の信号を点検していた。
  23. ^ エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  24. ^ 前述のホランドも、狙撃直後にグラシー・ノールに行き、そこで12~15人くらいの警察官と私服警官がいて空薬莢を探していたと証言している。しかし物的証拠になるものは出てこなかった。
  25. ^ Mary Moorman ジーン・ヒル(Jean Hill)の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている
  26. ^ メアリー・モーマンはFBIなどに聴取を受けたが、ウォーレン委員会には呼ばれなかった。FBIによるメアリー・モーマンのインタビュー(1963年11月22日)
  27. ^ バッジマン
  28. ^ 清涼飲料のボトルとその反射光とする説などがある。
  29. ^ アーノルドはTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」に出演している。
  30. ^ Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官
  31. ^ ロスコー・ホワイトについては、Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages Roscoe Whiteの項(The Roscoe White Curse? Who Speaks for Roscoe White?)、『Texas Monthly』1990年10月号の記事 I Was Mandarin... 参照、奥菜秀次『捏造の世界史』(祥伝社、2008年)第三章参照。『月刊現代』1991年2月号(講談社)にロン・レイトナーによる記事が掲載。中日新聞 1990年8月7日に記事「ケネディ大統領暗殺「CIA命令で父が撃った」当時2歳の男性が会見」。
  32. ^ ウォーレン委員会報告では上司のロイ・トゥルーリー。
  33. ^ この2人が会うまでの時間は銃撃から2分も経っていない。翌年にウォーレン委員会の実験で、その間にオズワルドが6階から2階に降りてくることが可能であり、ベーカーがオートバイを止めて教科書倉庫ビルの2階に上る時間も可能であることが立証されている。
  34. ^ ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』ではライフル銃の発見は13時05分となっている。
  35. ^ アーリン・ロバーツ。全く奇妙な話だが、彼女の姉妹はオズワルドを殺害したジャック・ルビーと面識があり、むしろ親しい関係で、ケネディ暗殺の4日前にルビーから投資話があって、姉妹はジャック・ルビーに会ったことを後にFBIに語っている。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 259P。
  36. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著では女性の声でその後現場には居なかったとなっているが、ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』ではこの時の無線通信の声が入っていて明らかに男性の声であった。そしてこの男性の身元はダラス市警が捜査せず分からなかったが、翌年3月にウォーレン委員会の調査で自動車修理工ドミンゴ・ベナヴィデスと確認できた。彼の名は捜査記録に一切載っていない「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 334P。
  37. ^ ただし、ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』では13時50分に逮捕したとされている。このオズワルド逮捕の時刻は資料によって食い違う。
  38. ^ レストランのウエートレス。この時離婚して5人の子どもを養っていた。47歳。後に一部の報道で「オズワルドを巡査の殺人犯だと確認することを取り下げた」と報じられ、一時はパニック状態になってもっとも論議の的になった証人と言われた。しかしウォーレン委員会での喚問ではオズワルドがティピットを射殺したことを証言している。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 338〜339P。
  39. ^ ネリン・E・ガン著『ダラスの紅いバラ』では病院の平均急患は1日273件としている。112P参照
  40. ^ ドキュメンタリー『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』では12時37分だが、ウォーレン報告書では12時35分と掲載されている。クリント・ヒルがこれより50年後に書いた「ミセスケネディ」によると12時34分になっている。また「ケネディ暗殺50年目の真実」ではパークランド記念病院に直前の緊急連絡が入ったのは12時33分であった。ちなみに撃たれたディーリープラザからパークランド記念病院まで6.5キロメートル(4マイル余り)の距離である。
  41. ^ ウイリアム・ケンプ・クラーク教授。「ケネディ大統領暗殺事件」(仲晃 著) では最初から室内に入っていたとしているが、「ダラスの紅いバラ」(ネリン・E・ガン著)では彼はこの時に学生に講義をしていて、大統領の治療を開始してから5分後に室内に入ったと記している。
  42. ^ チャールズ・ジェームズ・カリコ。28歳のインターン。この1年前に博士号を取った。なお、キャリコと表記する資料もある。
  43. ^ ネリン・E・ガン著『ダラスの紅いバラ』ではこのように述べているが、これは前から撃たれたと見ていると考えられる。
  44. ^ 仲晃 著「ケネディ大統領暗殺事件」では左足だが 、ネリン・E・ガン著『ダラスの紅いバラ』では右足になっている。そして右足の血管に注入したのは乳状溶液で白血とも呼ばれ輸血を待たせることができるとしている。
  45. ^ マーカム・ペリー教授、あるいは博士とも表記されている。外科副部長。彼はその日の夜に記者会見で、前方から撃たれたようだと語っている。しかしこの発言はその後撤回している。
  46. ^ この気管切開をした所が、大統領が被弾した第1発目の弾丸の出口であったことで、同日夜にベセスダ海軍病院での司法解剖で担当医が第1弾目の出口が分からず、後に論議を呼んだ。
  47. ^ この翌日にペリー医師に、検視を行ったワシントンのベセスダ海軍病院のヒュームズから電話が入っている。そこで弾丸の出口がこの喉の切開した所であることにヒュームズが気づくのであったが、彼はその時に気管切開をなぜしたのか尋ねている。検視した病理医から見ると、ケネディの頭の損傷からいって、気管切開したり、腕や脚の静脈から血液を送り込む必要があったのか疑問で、頭部の状態からほぼ即死状態であったとヒュームズは見ていた。
  48. ^ ジャクリーン夫人に「大統領は亡くなられました」と告げたのはウイリアム・クラーク部長であった。「ケネディ暗殺50年目の真実」ビル・オライリー著 江口泰子訳 313P
  49. ^ 『ダラスの紅いバラ』(ネリン・E・ガン著)では12時50分にクラーク部長が「もう手遅れだ」と述べた後に、ペリー医師が心臓マッサージを始めたとしており、クラーク部長がジャクリーン夫人に大統領の死亡を告げたのがいつかは書かれていない。他の資料でも大統領の死亡時刻については記されているものはない。
  50. ^ 実際に医療チームとして中心的な役割を果たしたのは、カリコ、ペリー、ジェンキンス、バクスターの4名であった。後に大統領は前方から撃たれたとする説を唱えたチャールズ・クレンショーはこの時研修医として室内にいたが、治療には加わっていない。それどころか彼が治療室にいたという記憶が4名とも無かった。また、同じく前方から撃たれたとしたロバート・マクレラン医師は、治療の最後に室内に駆けつけている。この異説に対して、治療に直接かかわった前述の4人はいずれも完全な間違いであるとして、後方上部からの狙撃であることは自分達の見解と矛盾しないと、28年後に述べている。「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 76〜80Pを参照
  51. ^ 彼はこの後に民主党から共和党へ鞍替えしてニクソン政権で財務長官を務めることになる。
  52. ^ 「コナリー知事は被弾してすぐに意識を失い、翌日に意識を回復した時に、ネリー夫人から大統領の死を知らされた。彼は後に大統領が2発目を受けた時に大統領は助からないと感じたという。そして自分もこれで死ぬと思ったと語っている。(ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 39P)」との記載は、誤りである。 コナリー知事が意識を失ったのは、大統領が頭部に被弾後であり、パークランド病院へ向かう途中で意識を失った。パークランドに到着した際の急ブレーキで意識を取り戻し、ケネディ大統領に救護か行き届くようにジャンプシートから降りようとし立ち上がろうとした際に、ひどい痛みを感じ、倒れ込んだ。
  53. ^ 当時テレビはNBC、CBS、ABCの三大ネットワークであったが、ラジオはこの3局に加え、MBS (ミューチュアル放送会社/MUTUAL BROADCASTING SYSTEM)というラジオ単独のネットワークがあったが、1999年に解散した。
  54. ^ この時代は昼間はフィルム放映が多く、スタジオを使うことが無かったので、スタジオは電源を落として休止状態であった。急に動かすことになって電源を入れても、当時は真空管を使っており、テレビカメラが作動するまで15分以上はかかる代物であった。結局3大ネットワークのCBS、NBC、ABCともに、最初は画面上は「BULLETIN」の文字テロップだけで音声だけのニュースであった。
  55. ^ ビル・ライアン、チャット・ハントリー、フランク・マギーのNBCキャスター陣で、この他にデビッド・ブリンクリーがワシントンからレポートを送っていた。
  56. ^ 元AP通信記者であったこのダン・ラザーはこの日、大統領のパレードをデイリー広場で見ていた。そしてすぐにダラス・トレードマートセンターに向かい、昼食会場でマイクを握って13時からの中継を行った。なお、彼は後にニューヨーク本部勤務となり、これより18年後の1981年3月9日にウォルター・クロンカイトの後任としてCBSイブニングニュースのアンカーマンに就任し、2005年まで務めている。
  57. ^ 彼は狙撃現場のディーリー・プラザにいた人間で、すぐに目撃したニューマン夫妻をスタジオに運び、8ミリカメラで撮影したザブルーダーもスタジオに運んでインタビューしている。
  58. ^ このジャックリーン夫人の警護担当者が大統領が死亡したようだと語ったというUPI通信からの速報メモが手元に来た時に、思わず「少しお待ちを‥」と言ってしばらく目で速報文を確認して、心を落ち着かせてからゆっくりと伝えている。これが大統領死去の最初のテレビ報道であった。
  59. ^ 実はこの時まで、マクニール記者の声がテレビに入らなかったのだが、公式発表を伝える時になって、マクニール記者の声も入り、両者の声がテレビの音声で伝わった。
  60. ^ 「この時に、こちらを振り向いたジョンソンの顔を私は一生忘れないだろう」とキルダウ副報道官は1ヶ月後のラジオでの会見で語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 88P
  61. ^ フーバーFBI長官とケネディ兄弟との関係は大統領就任以前から冷たいものであった。そして兄ジョンはフーバーをFBI長官のポストから勇退という形で引き摺り降ろそうとしたが、大統領のプライベートな関係のところでの醜聞ネタを持ち出し、結局FBI長官の交代を諦めざるを得なかった。その一方でジョンソン新大統領とフーバーの関係は議員時代から親しいもので、その後はホワイトハウスとFBIの関係はケネディ時代と違って良好であった。
  62. ^ この直後にフーバーは、オズワルドをFBIがマークしていたが危険者リストには記載せず、シークレット・サービスにダラスでの要注意人物としてオズワルドの名前を挙げていなかったことを知り激しく怒ったと言われている。彼はやがてオズワルドがFBIの秘密情報提供者であったとの批判に晒されることとなった。
  63. ^ 民主党の重鎮。ジョンソン政権でのベトナム戦争で反対の論陣を張り、後に駐日大使として来日した。
  64. ^ この年8月に生まれてすぐに亡くなったケネディ大統領の次男パトリックのこと。
  65. ^ 後のウォーターゲート事件で大統領執務室での会話や電話での会話が録音されていたことが明らかになったが、この時の電話内容も録音されていて、今日ではYouTubeで見ることができる。ケネディ大統領の死から1時間余りの時と想像されるが、ジョンソン夫妻の慰めの言葉も耳に入らないほどローズはただ「Thank you, Thank you, He loved you」と答えている。
  66. ^ このユーニスが父にジョンの死を伝えたことは、後にジョセフの介護人であったリタ・ダラスも同じように述べている。しかし仲 晃著「ケネディ大統領暗殺事件」では、翌日にエドワードが知らせたことになっている。『翌朝、ジョセフは毎朝ベッドに置かれるニューヨーク・タイムズ紙がこの日に限り無いのに気付いた。そこへエドワード上院議員が入って来たのでテレビをつけるように言うと「故障ですよ」とエドワードは機転を利かして答えたが、テレビのプラグが外れていることを言われて、エドワードは隠すことを諦めて父に事件を伝えた』「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 82P
  67. ^ ロバート・ケネディに大統領狙撃の知らせが入ってすぐに、連邦司法省は法令を調査して、大統領の殺害に関して連邦に捜査権が無いことをすぐに確認している。ほぼ同時の動きであったが、この限りではテキサス州警察が捜査し、ローズ検視官が遺体解剖を行うのは全く当然のことであった。このことが3日後にテキサス州司法長官が独自の調査を開始する動きとなり、それを牽制するために急遽大統領直属の調査委員会(ウォーレン委員会)を設置する動きに繋がっていった。
  68. ^ このアール・ローズ検視官は、この直後オズワルドに射殺された警官のティピット巡査の検視を行い、2日後にジャック・ルビーに殺されたオズワルドの検視を行い、そして4年後獄死したジャック・ルビーの検視も行ったとされている。
  69. ^ 引き下がったのは、1つの条件をつけてホワイトハウス側がその条件を了解したからでもある。その条件とは医療関係者(この場合は大統領の主治医バークリー提督)が遺体に付き添い、ダラスに戻って証言することを承諾したからであった。「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 379~380P
  70. ^ 4名以外の閣僚はこの時に、日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機で東京に向かっていた。
  71. ^ この時にジョンソンは後にこう回想している。「私の脳裏を走ったのは次は誰を撃つだろうか、ということだ。そしてワシントンで何が起こるか。ミサイルは飛んでくるのか。私は陰謀だと思った。」「CIA秘録」上巻 317P ティム・ワーナー著 文藝春秋 2008年11月発行
  72. ^ エアフォース・ワンの運用責任者であったマクヒュー空軍准将(Godfrey T. McHugh)によると、リンドン・B・ジョンソンは就任宣誓の前に機内のトイレで「殺される。これは陰謀だ。みんなやられる (They're going to get us all. It's a plot. It's a plot. It's going to get us all.)」と喚いていた(共同通信 2009年11月03日、Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President)。また、ロバート・ケネディにジョンソン自身が電話で相談し、宣誓式は即刻、ダラスで行えとのアドバイスを受けたという主張があるが、ケネディサイドのスタッフはこれを否定している。
  73. ^ 大統領が死亡、辞職、不能力者になった場合や議会で弾劾が決議した場合は副大統領が昇格することが憲法に規定されており、1961年8月にケネディとで「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、ケネディが意識不明になった時点で「大統領代行」を自ら宣言することは可能であり、死亡した時点で自動的に昇格している。したがって宣誓式を行わなくても大統領はすでにケネディからジョンソンに受け継がれている。
  74. ^ 副大統領はエアフォース・ツーという専用機があり、ダラスに来た時も副大統領専用機に乗ってきたが、大統領死亡という緊急事態で新大統領となったことで、ケネディが搭乗してきた大統領専用機に急遽搭乗することとなった。
  75. ^ 司法解剖をこの病院で行うことになったのは、大統領主治医のバークリー提督がワシントンに戻る途中のエアフォース・ワンから連絡していた。そしてこれはジャクリーン夫人の希望であったと述べている。
  76. ^ 検視が行われた海軍病院解剖検視室は30〜40人が座れる階段教室になっており、FBIとシークレット・サービスと他の医療関係者が見ていた。ジャクリーン夫人とロバート・ケネディら家族は上の階で待機して、主治医のバークリー提督も検視が始まると上の階へ行った。
  77. ^ 解剖自体は4時間だが、その後の弾の出口などを巡って延々と論議があり、この夜は19時30分から5時30分まで3人は室内にいた。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 30P。
  78. ^ 「二人のFBI捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から5.5インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。」と一部で述べているが、検視の過程でも喉仏の下の部分については、あくまで気管切開口として認識していて、頸部から入った弾の出口が分からずX線でも弾丸の確認が出来なかった。ヒュームズ医師は検視の翌日にパークランド記念病院のペリー医師と電話して気管切開口が弾の出口であることに気がついた。この曖昧さが後にさまざまな議論になった。
  79. ^ 後にウォーレン委員長にFBIから送られて来た写真は全て約10センチ×13センチで白黒18枚、カラー22枚であった。「ケネディ暗殺〜ウォーレン委員会50年目の証言〜」フィリップ・シノン著 上巻 132P。
  80. ^ 「数枚の写真およびレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)」とする情報もあるが、少なくとも合わせると66枚の写真が撮られている。また、「FBIが撮影していた、あるいは病理医が撮った写真をFBIが持ち帰った」とする話についてはヒュームズは否定している。
  81. ^ 検視を担当した病理医が大統領の着衣を初めて見たのは、翌年のウォーレン委員会の調査担当官との面接の場であった。ボズウェルは遺体解剖直後に遺体のスケッチを描いていたが、これが着衣にできた穴と一致しなかったことで後に疑惑を生むことになった。この食い違いは大統領が沿道の観衆に手を振っている時に被弾したことで背広が盛り上がっていた時に起きたことによって生じたとされている。
  82. ^ 著者の宮本倫好氏は、この時ニューヨークに滞在していて、ケネディ暗殺の衝撃の模様を直接見聞きしていた。そして同じ著書に「自分がその瞬間にどこそこにいたと、何十年もたっても明確に記憶している事件がある。アメリカ人にはケネディ暗殺が、まさにそれに当たる」と書いている。
  83. ^ この当時は、現在のCNNやFOXはまだ開局していなかった。
  84. ^ 当時日本でも放映されて人気番組だったサンセット77の主演俳優ロジャー・スミス(アン=マーグレットの夫)はちょうどこの時に日本を訪問中だったが、暗殺事件のニュースを聞いてショックを受けながら、「番組の放送は取りやめているでしょう」と語った。本国のABCは11月22日夜7時30分放送予定であった第196話の放送を、翌週に延期している。
  85. ^ 今宵アメリカは泣く。若くして逝った大統領のためのみならずわが身のために。悲しみはすべての人のものであった。なぜならば国のなかの最悪のものが最善のものを打ち破ったがゆえに。告発されたのは暗殺者だけではない。なぜならば国民の中に存在するあるもの、狂気と暴力が法と秩序の最高のシンボルを破壊し去ったがゆえに。 ジェームズ・レストン 1963.11.23
  86. ^ 当初はケネディによる日本へのメッセージが放送予定だったが中止となった。事前に11月上旬ホワイトハウスにて収録されたもので、暗殺の翌日には日本の各局のニュースで「送られるはずだったケネディ大統領のメッセージ」として放送された。この映像と音声メッセージはジョン・F・ケネディ図書館に現在も保管されており、その後フジテレビ系『スピーク』など、後に複数のテレビ番組で放送されたことがある。
  87. ^ サンケイ新聞の記者小池英夫はルビーがオズワルドを射殺する瞬間を目撃した(産経新聞1963年11月25日夕刊、小池英夫 『ケネディ暗殺事件見聞録』(ラ・テール出版局、1996年))。
  88. ^ これより98年前のリンカーン暗殺事件の際も、リンカーン大統領の遺体が安置されたのもこのイーストルーム(東の間)であった。
  89. ^ 後の1968年に首相となる。
  90. ^ 翌年10月に総選挙で勝利して首相となる。
  91. ^ この年8月にベルリンをケネディが訪問して、ベルリンの壁の前で有名な「イッヒ・ベルリーナ」の演説を行った。この時のベルリン市長がブラントで後に西独首相となった。
  92. ^ 後の1978年に首相となる。
  93. ^ この前月に大統領選挙に当選していたが、この日までにはまだ就任していない。当時は国家再建最高会議議長であった。
  94. ^ このクッシング枢機卿と歌手ルイジ・ベナの「アベマリア」というのは10年前にジョンとジャクリーンとの結婚式でも同じ顔合わせであった。ケネディ大統領は同じ枢機卿で同じ歌手で「アベマリア」の歌とともに結婚を祝され、そして葬儀で送られていった。
  95. ^ この葬儀の時のケネディの墓はその後、少し移動しており、現在の墓の位置ではない。
  96. ^ 民主党上院議員。上院軍事委員長。
  97. ^ 共和党上院議員。元インド大使。
  98. ^ 民主党下院議員。党院内副総務。
  99. ^ 共和党下院議員。後に1974年にニクソン大統領の辞任に伴い副大統領から昇格して第38代大統領となる。
  100. ^ 1961年春に亡命キューバ人がキューバに上陸して撃退された第1次キューバ危機当時のCIA長官で、最初からCIAの支援で行ったことで、その後に責任を取って辞任した。この人選については後に議論を呼んだ。
  101. ^ 元世界銀行総裁でケネディ政権の軍縮問題顧問。
  102. ^ この証人尋問に7人の委員が全員出席したケースは一度もない。また、出席率がわずか6.4パーセントの委員もいて、委員の最高出席率は74.5パーセントのフォード下院議員であった。「ケネディはなぜ暗殺されたか」77P
  103. ^ オズワルドの単独犯行説に対して、次のような説が主張されている。大統領が撃たれた場所の前方の丘(グラシー・ノール grassy knoll)付近から狙撃があったとする説。教科書倉庫ビル(Texas School Book Depository)にオズワルド以外の狙撃者がいたとする説。別のビル(ダルテックスビル Dal-Tex Building、カントリーレコーズビル Country Records Building など)に狙撃者がいたとする説。オズワルドを共犯者とする説と身代わりとする説がある。研究家D.ペリーは暗殺事件に関与したとされた68人の名とソースを列挙している。RASHOMON TO THE EXTREME
  104. ^ 教科書ビルで犯行に使用されたダンボール(スナイパーズ・ネストと呼ばれる)には、オズワルドとマルコム・ウォレス (Malcolm [Mac] Wallace) の2人の指紋があったする説がある。参照:バー・マクレラン『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』(文藝春秋、2005年)バー・マクレランはL・ジョンソンの顧問弁護士の一人、ブッシュ政権の大統領報道官スコット・マクレランの父。参考:JFK Breakthrough?
  105. ^ チャーチ委員会(アメリカ合衆国上院外交委員会)、ロックフェラー委員会(アメリカ合衆国 CIA 国内活動調査委員会)も調査を行った。
  106. ^ 重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
  107. ^ 『応用統計学年報』(Annals of Statistics Volume 1, Number 2,2007)に掲載された論文(Cliff Spiegelman, William A. Tobin, William D. James, Simon J. Sheather, Stuart Wexler, and D. Max Roundhill Chemical and forensic analysis of JFK assassination bullet lots: Is a second shooter possible?)は、発見された銃弾と破片の分析から、銃弾と破片は3発もしくはそれ以上の銃弾に由来する可能性もあり、科学的な再調査が必要としている。参照 [1] 参照 ケネディ暗殺は複数犯?命中弾丸3発以上…米大チーム新説 上記の論文の結論は、「現在の分析技術は当時より向上しているので再調査したら、何か新しいことがわかるかもしれない。」としており、弾丸の数を特定するものではない。よって、「複数犯?命中弾3発以上」などの翻訳は全くの嘘である。
  108. ^ 水中に向かって撃つような事をしない限り、通常弾丸は必ず変形する。弾丸は垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形し、弾頭部分は損傷していなかった。
  109. ^ ケネディは緊急処置室で運ばれた担架から移動していないとされることから、証拠は無いものの、コナリー知事を運んだものと推定されている。
  110. ^ 一般論として銃弾の入口と出口の見分けは、入口側が小さく出口側が大きい。ケネディの場合もベセスダ海軍病院の検視で首に受けた弾の出口が分からなかったことと、頭部の致命傷となった傷について頭部の骨片がダラスから後に到着していて、不透明な部分があり、議論を呼んだ。
  111. ^ 後にマクレーンは記録された音声が自分の白バイの無線によるものであることを否定している。
  112. ^ 録音された場所および時間、録音された銃声などの真実性について議論がある。司法省の依頼を受けた全米科学アカデミー(NAS)による調査(1982年)は下院暗殺調査委員会の結論("scientific acoustical evidence establishes a high probability that two gunmen fired at President John F. Kennedy" (科学的な音響の証拠は、2人の射手がジョン F. ケネディ大統領に発砲したことを高い確率で立証している))を否定した。National Academy of Sciences Report of the Committee onBallistic Acoustics ディクタベルト(Dictabelt)は磁気テープではなく針を使用するため、再生を繰り返すと破損する。Tape of Kennedy's Killing Is Getting Digital nalysis(ケネディ暗殺の録音テープ、デジタル解析へ)
  113. ^ 1979年、下院暗殺調査委員会は音声記録を証拠認定しオズワルド以外の狙撃者が存在した可能性が高いと結論したが、後に証拠認定を取り消した(Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy (Carroll & Graf Publishers, 1998))。銃声の回数には議論があり、4回とする証言もある(ローズマリー・ウィルス(Rosemary Willis、ザプルーダー・フィルムの赤いスカートの少女とされる人物。)、ジーン・ヒルなど)。
  114. ^ 1973年7月に月刊誌「アトランチック」に掲載された評論家・作家レオ・ジャノスとの会見記事で述べている。
  115. ^ ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある(奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社、2008年)。
  116. ^ ピーター・ローフォードはジョン・F・ケネディの妹パトリシアの夫(1954年-1966年)。なお、実際にケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。
  117. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(早川書房、1992年)、オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年)など参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  118. ^ 映画は事実とフィクションを織り交ぜており、様々な論争の原因となった(『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年参照))。
  119. ^ これについては、ケネディがヘルニアによる負荷を和らげるためにコルセットを着用していたことで上着がずれていたことによるものと説明されている[12]
  120. ^ Globe Magazine(タブロイド誌 [2])は「運転手ビル・グリアーが発砲した」とする記事を掲載した。この「説」は「Majority 12」関係者も主張したことがある(MJ-12Majestic 12参照。参考:[3][4])。 後続車に乗っていたシークレットサービスのジョージ・ヒッキー(George Hickey)が発砲したとする説(Mortal Error参照)は訴訟に発展した。
  121. ^ しかし、検視したベセスダ海軍病院の病理医3人のうち、1人は銃創の専門家であり、そもそも司法解剖での検視の役割は死因の確定であって、弾道の入口と出口を確認はするが弾道の入射角の判定はしていない。判定はウォーレン委員会で行っている。それとケネディの背中には痛みを和らげる補助具が固定して装着されており暗殺時は猫背気味ではない。
  122. ^ しかしケネディとジョンソンとの間では1961年8月に「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、大統領が意識不明に陥った場合は副大統領が「大統領代行」を宣言することが出来、死亡した場合は即大統領に昇格することになっている。このダラスの場合は突然の事態であったがケネディが死亡した13時の段階ですでにジョンソンは大統領であった。宣誓の有無は関係なくこれはその後も同じである。なお何らかの非常事態で副大統領以下も同時に死亡した場合は、下院議長・上院仮議長・国務長官・財務長官・国防長官・司法長官・・・というように大統領を継承する順番が決められていて、権力の空白を生じないように定められている。『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』98〜99P参照 仲晃 著
  123. ^ 「ただし、『映像に残る暗殺場面では前から撃たれている』という事実は説明できていない。」という意見があるが、ザプルーダー・フィルムによっても、前から撃たれていると断定できるものではない。
  124. ^ ケネディの頭蓋骨の骨折線は前からの銃撃ではなく、背後からの銃撃によるものということを証明したとしている。

出典

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