サーハン・ベシャラ・サーハン
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サーハン・ベシャラ・サーハン
سرحان بشارة سرحان Sirhan Bishara Sirhan |
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2016年の15回目の仮釈放聴聞会の前日のサーハン。
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生誕 | 1944年3月19日(80歳)![]() |
職業 | 元サンタアニタパーク競馬場社員、ロバート・ケネディ暗殺犯 |
サーハン・ベシャラ・サーハン(سرحان بشارة سرحان、Sirhan Bishara Sirhan、1944年3月19日 - )は、パレスチナ系アメリカ人で、元アメリカ合衆国司法長官で大統領候補であったロバート・ケネディの暗殺犯。
プロフィール
生い立ち
イギリス統治下のパレスチナ、エルサレムで生まれたサーハンは、12歳の時に家族とともにアメリカのニューヨーク州に移民した。その後カリフォルニア州に移ったサーハンは、パサデナ・シティ・カレッジを卒業後の1965年にサンタアニタパーク競馬場に就職した。
ロバート・ケネディ暗殺
1968年6月5日に、民主党選出の大統領候補で元司法長官でもあるロバート・ケネディが、ロサンゼルスのアンバサダーホテルの宴会場で行われた予備選の祝勝会で演説した後、会場を出るための近道として調理場を通る途中に、サーハンが22口径の銃でロバートを撃ち、さらに周辺にいた5人にも重軽傷を負わせた。サーハンはその場で無傷で取り押さえられたものの、ロバートは右脳を損傷し、翌6日早朝死亡した。
疑惑


その後サーハンは暗殺動機を「ケネディが親イスラエル的言動を行ったため」と発言したものの、その後「銃撃の瞬間のことは覚えていない」と発言したことや、銃撃後その場から逃げようとするどころか銃を構えたまま立ちつくしていたなど、不自然な言動を取ったことから、「サーハンは犯行時に何者かによって催眠術を施されていた」という説もある。
また、銃撃直前にサーハンがホテル内のバーで会話をしていた白人女性が、なぜか事件後に衣服を事件現場周辺に脱ぎ捨てたまま姿を消したほか、ロサンゼルス市警察が2000枚以上の証拠写真等をなぜか焼却廃棄し早々に捜査を切り上げるなど(その後FBIが捜査を受け継いだ)、捜査状況についても不審とされる点が多い。
さらに複数の研究者が目撃証言や解剖結果、弾道解析を受けて調査した結果、サーハンが銃撃したという捜査結果と矛盾する点があるという結論に達したなど、現在に至ってもサーハンの単独犯行説に異議を唱えるものが多い。
現在
その後行われた裁判でサーハンは終身刑となり、数度に渡り裁判のやり直しを求めたもののすべて却下されている。なお、サーハンは1989年にインタビューに応じ、「銃撃の瞬間については覚えていないものの、自分が犯人である」と述べている。カリフォルニア州のプレザントヴァレーにある刑務所に収監されていたが、2021年8月27日、カリフォルニア州当局が仮釈放を勧告した[1][2]。
出典
- ^ “ボビー・ケネディ暗殺から40年”. AFP. (2008年6月6日)
- ^ “ケネディ暗殺犯の釈放勧告 米加州当局、知事が最終判断へ”. 東京新聞. (2021年8月28日)
サーハン・サーハン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 08:18 UTC 版)
「ロバート・ケネディ暗殺事件」の記事における「サーハン・サーハン」の解説
詳細は「サーハン・ベシャラ・サーハン」を参照 エルサレム生まれのヨルダン国籍を持つ、アラブ人キリスト教徒、サーハン・サーハンはシオニストに強い憎悪を抱いていた。家宅捜索の結果、見つかった日記の5月19日には、「RFK(ロバート・F・ケネディ)を殺害する決意が日増しにゆるぎないものとなっていく。RFKは死ぬべきだ。RFKは殺されるべきだ。ロバート・F・ケネディは暗殺されるべきだ……ロバート・F・ケネディは68年6月5日までに暗殺されるべきだ」と記されていた。 なお暗殺の日付は、イスラエルと近隣アラブ諸国との間で第三次中東戦争が始まった日であり、大きな意味を持ったと思われる。サーハンが警察に逮捕された時、ポケットの中からケネディのイスラエル支援について書かれた新聞記事が見つかった。また裁判では、ケネディの支援を知ってから憎むようになったことを証言している。1989年にデービッド・フロストに、「ロバート・ケネディと私のつながりは、イスラエルを支援したこと、50機の爆撃機を送り込んでパレスチナ人を痛めつけようと企んだことだけだ」と語っている。 学者の中には、中東のアラブ・イスラエル間の紛争に端を発したアメリカにおける政治的暴力行為のうち、最初期の重大事件と見るものもいる。しかし中東問題が彼の主要な動機であると解釈するのは、あまりにも単純化しすぎており、サーハンの深刻な精神的問題を無視しているという批判もなされている。 裁判期間中、サーハンの弁護士は依頼人が罪を自白しようとし、いくつかの点で有罪を認めていたにも関わらず、限定責任能力を主張した。サーハンは犯行について記憶にないと主張し続けていたが、20年間にわたった予謀の殺意(英語版)を持ってケネディを殺害したと証言した。裁判官はこの告白を採用せず、この証言は後に撤回された。 サーハンは1969年4月17日に有罪判決を受け、その6日後に死刑を宣告された。1972年のアンダーソン事件においてカリフォルニア州最高裁判所は、死刑が残虐または異常な刑罰で違憲であるという判決(en:People v. Anderson)を下し、これによってカリフォルニア州において1972年以前の未執行の死刑宣告は無効とされ、サーハンは終身刑となった。2011年までにサーハンは仮釈放を14回申請したがいずれも認められず、2013年時点ではサンディエゴ郡のリチャード・J・ドノバン刑務所に収監されている。
※この「サーハン・サーハン」の解説は、「ロバート・ケネディ暗殺事件」の解説の一部です。
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