クモヤ491形→クモハ491形
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「国鉄72系電車」の記事における「クモヤ491形→クモハ491形」の解説
1958年(昭和33年)2月および3月、仙山線の仙台 - 作並間の交流電化と作並 - 山寺間の直流電化を直通する試作交直流電車としてモハ73形2両 (73033, 73050) が大井工場および吹田工場で日本で最初の交流直流両用電車(直流1500V、交流20000V・50Hz)に改造された。電動車は屋根上のパンタグラフが撤去され、相棒の制御車は伊那電気鉄道からのクハ5900形 (5900, 5901) とし、A編成のモハ73033+クハ5901、B編成のモハ73050+クハ5900、で編成した。塗装は、モハ73形が茶色一色にクリーム色の帯が車体裾に引かれたもの、クハ5900形は幕板と腰板を小豆色、窓周りをクリーム色に塗り分けた。また、1959年6月の称号規程改正により、モハ73形の2両はクモヤ491形に、クハ5900形の2両はクヤ490形に改称され、モハ73033+クハ5901はクモヤ491-12+クヤ490-11となり、モハ73050+クハ5900はクモヤ491-11+クヤ490-1となった。 この電車は、クモヤ491が制御電動車でモハ73形で使用されていた142kwのMT40B形を改造した4個の主電動機を2つの台車に、制御装置と抵抗器を床下にそれぞれ搭載しており、クヤ490が制御車で屋根上に交直両用のパンタグラフ・空気遮断器・交直切替器を、床下に主変圧器・水銀整流器・交直転換器・直流リアクトルをそれぞれ搭載しており、交直の切替は車上切替方式を採用していた。クモヤ491をM車、クヤ490をD車(電源車)と呼称され2両でユニットを組んでおり、直流区間では、架線からの電源が、交流区間では、主変圧器・水銀整流器により降圧・整流された直流電源が制御車を介して制御電動車に入り、制御電動車の制御装置と主抵抗器を介して抵抗制御で電動機を制御する構成となっており、制御電動車とユニットを組む制御車から電源の供給を受ける方式であった、また、A編成とB編成では搭載されている主変圧器と水銀整流器が異なっており、主変圧器はA編成では外鉄形、B編成では内鉄形で、水銀整流器はA編成では三菱電機のイグナイトロン、B編成では日立製作所のエキサイトロンがそれぞれ搭載されていた。水銀整流器は水銀を入れた真空タンクを加熱させて発生させた水銀蒸気の作用で整流する方式であったため、温度制御の取扱いが極めて厄介であり、出庫時に水銀整流器の予熱などで数10分の時間がかかっていたが、その後に予熱が不要で耐電圧性や容積が優れたシリコン整流器が三菱電機・日立製作所・東芝の3社で製作され、1958年(昭和33年)11月に両編成に仮設で搭載され性能試験が行われた。この時のシリコン整流器の素子には日立製作所・東芝製がGE社製、三菱電機がウェスチングハウス社製の外国のメーカーのものが使用されていたが、翌年の1959年(昭和34年)にはこの素子の国産化ができるようになり、水銀整流器に代わる形で搭載されて長期の耐久試験が行われた。 試験終了後は試験を行っていた仙山線で営業運転を行うこととなり、1960年10月に営業用に改造された。クモヤ491形は総括制御装置が設置されたほか、車体後方に機械室・トイレを設置し、中間の2か所の扉は締め切られてその部分にも座席および吊り革が設置された。また、両端部の扉は半自動化され、扉の下には自動ステップが取り付けられた。車体の塗装も、小豆色(赤13号)とクリーム4号の交直流電車標準塗装となった。これにより、クモヤ491形はクモハ491形に、クヤ490形はクハ490形に形式を改めた。仙山線では、同年11月から臨時列車で使用されたが、1966年2月に廃車となった。
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