オーバーマイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:44 UTC 版)
水源からバンベルクまではオーバーマインラントと呼ばれる。2つの源流がクルムバッハのシュタイネンハウゼン城付近で合流して誕生したマイン川は、フレンキシェ・アルプ北辺の狭い谷を西に向かって流れる。源流沿いのバイロイトやクルムバッハを別にして、マイン川はこの行程で初めて、よく保存された歴史的なたたずまいを持ついくつもの小都市に出会う。カロリング朝の城をもつブルククンシュタットや町の防衛施設の一部が遺るリヒテンフェルスなどである。 ブルククンシュタットで左岸から合流してくる支流は、名前をヴァイスマイン川 (Weismain)という。白マイン川(Weißer MainまたはWeißmain)と混同しやすく注意が必要である。 リヒテンフェルスと川沿いの次の町であるバート・シュタッフェルシュタインとの間の左岸の丘陵上にドイツ・バロック様式の最も重要な建築物の一つである十四聖人聖堂が建っている。この建物はバルタザール・ノイマン設計の建築である。マイン川流域の、特にヴュルツブルク周辺にはノイマンの作品がしばしば現れる。十四聖人聖堂のマイン川を挟んだ真向かい、右岸沿いの丘陵に11世紀に創設されたベネディクト会のバンツ修道院の豪壮な建築がある。 バート・シュタッフェルシュタインは、その上流地域の極端に豊かな文化財の他にも、歴史的な町並みや17世紀から建設された大規模な木組み建築を見ることができる。また、標高540mのシュタッフェルベルクは、その岩だらけの山頂平面部分に石器時代から人が住んでいたことが知られており、紀元前30年に放棄されたケルトの都市とギリシアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスが記録している Menosgadaがここであると推定されている。 バート・シュタッフェルシュタインを過ぎると川は南に向きを変える。多くの川がマインに注ぎ込み氾濫原を形成する。ブライテンギュスバッハ付近で右岸からイッツ川が注ぎ込むと、その数km後には、マイン川沿いの文化的白眉バンベルクへ至る。 無傷で遺されたものとしてはドイツ最大の旧市街を有するこの都市は、1993年にユネスコ世界遺産に登録され、一般に知られている。そびえ立つ巨大なロマネスク建築の大聖堂を中心に、都市を形成する核となる建築が、マイン川の支流であるレグニッツ川の両岸と中州に点在して広がっている。その中でも15世紀に建てられた旧市庁舎は、レグニッツ川の真ん中に建てられているほどである。レグニッツ川は、この街の郊外でマイン川に合流する。 マイン川は、しかし、この都市の中心部を流れているのではなく、街の北郊を流れている。マイン川にとってバンベルクが重要なのは、その歴史的・文化的背景の重要性のみではなく、ここにライン・マイン・ドナウ運河の北端が通じていることにある。この運河は、かなりの距離をレグニッツ川と共有しておりビシュベルク付近でマイン川に接続する共通の河口を有している。この河口近くのマイン川の河岸には、新しい港が設けられている。 マイン川とドナウ川の間の運河は、1843年にはすでにルートヴィヒ運河が開通していた。この運河もやはりバンベルクでマイン川に接続していたのだが、運河の川筋に沿って曳舟道があり、幅の狭い運河を馬が船を引いて往き来していた。この運河は、技術的に時代遅れになっていたことや第二次世界大戦で被害を受けたことから、1950年に廃止された。近代的な運河掘削の計画は1920年からすでにあった。1960年にバンベルク側で工事が始まり、1972年に、まずはニュルンベルクまでの区間が開通した。これにより、人口100万人を数えるニュルンベルク工業地域がマイン川の内陸航行システムに結びつくこととなり、交通状況の改善を印象づけた。1992年に運河は、ドナウ川沿岸のケルハイムまで完成し、両河川間の交通が接続された。 船での交通が可能となったマイン川は、バンベルクから西に向かって流れてゆく。シュヴァインフルトまでの間は、比較的直線的な行程である。ここでも、城下町エルトマン、木組み建築とマルクト広場が印象的なツァイル、マリアブルクハウゼン修道院の町ハースフルトといったロマンティックな小都市が沿岸に並ぶ。リムバッハ(エルトマン市内)とツァイルには、それぞれ有名な巡礼教会がある。マイン川の右岸はハース山地、左岸はシュタイガーヴァルトである。ハースフルトから約20kmでシュヴァインフルトに到着し、ここから『マインドライエック』(マインの三角)と呼ばれる区間に入る。
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