エンデバー礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 22:04 UTC 版)
「エンデバー (帆船)」の記事における「エンデバー礁」の解説
1770年6月10日の夜11時前エンデバー号は、グレートバリアリーフ内の、今日エンデバー礁と称される珊瑚礁に衝突した。エンデバー号が衝突した場所は海底から急峻に立ち上がっており、衝突箇所から海底までは36 mあることが錘による観測によって明らかになった。 直ちに帆が降ろされ、錨を降ろして船を礁から引き離そうとしたが上手く行かなかった。すでに満潮に差し掛かかり、船を浮上させるには船を軽くするしか策が無かったので、鉄と石のバラスト、傷んだ船舶用品、砲が投棄され、飲料水も汲みだされた。乗員の一人であった植物画家のシドニー・パーキンソンの記録によると、砲はただで投棄されたのではなく、後で回収しようと浮標を装着されたが、回収はできなかった (砲とバラストは1969年に発見された)。 クックの見積もりによれば40から50トン軽くなり、翌朝の満潮時に船を礁から引き離すために更なる努力が傾けられたが、やはり失敗した。午後に、大型の船首錨をロングボートによって船から積み出し、合計5つの錨に船を引っ掛けて、夕方の上げ潮時に再度挑戦する用意が整えられた。船内には礁による破損部から浸水が始まり、浸水部分は船が礁から離れると直ちに広がるであろうことは明らかだったが、クックは危険を冒すことを決断した。午後10時20分頃に船は波によって動かされ、ついに礁から離れた。抜けなくなった小型の錨を除いて (これも1969年に発見された)、錨は回収された。 船の傷は礁から離れたために大きくなり、3基のポンプで浸水が汲みだされた。船倉に浸水した海水の水位を計測中に係が交代したところ、代わった水夫が船倉の底板からの水位を計測したため (その前までは船倉の横梁の頂点からの水位を計測していた) 、急激に18インチも水位が上昇したという報せに、船内に恐慌の波が広がった。しかし水夫が過ちに気づいたため、安堵の思いが励みになって水を汲み出す仕事も勢いを盛り返し、水位は下降し始めた。 もし船が沈んでいたらひどいことになっただろうと思われる。記録に残っている船員らの控えめな証言のせいで、その危険は過小評価されているが、ジョゼフ・バンクスの航海誌からだけ、当時の切迫した状況が読み取れる。エンデバー号は岸から何マイルも離れていたし、ボートは乗員すべてを載せることはできなかった (ボートは作業用で救命艇ではなかった) から、間違いなく多数が溺れたろう。そしてボートに乗り込めた者たちも、丸腰で食料も無く見知らぬ土地に打ち捨てられたであろう。このような状況下では船員たちは略奪を始め命令に従わなくなる、という彼が聞いていた噂話とはまるで違った、乗組員らの冷静で有能な働きを、バンクスは特筆している。 士官候補生のジョナサン・マンクハウスは船にフォーザリングを施すことを提案しこの作業を指揮した。彼はフォーザリングで助かった商船に乗り込んでいた経験があったのだ。槙皮と羊毛を古い帆布に塗り付けてから、帆布を船の下に引き込み水圧で帆布が傷を塞ぐようにするのである。これは思いもかけないほど上手く運び、まもなく、ポンプを止めても良いくらいにごく僅かの浸水しかしなくなった。 一行は船の修理をするための港を求めて北へ進み、後にクックがエンデバー川と命名した川に6月13日の午後にたどり着いた。強風のため船は6月17日まで砂州に近づけなかった。この場所で一行はエンデバー号を陸に揚げ船倉を修理した。大人のこぶし大のサンゴの欠片が船倉の底板をすっぱり切り裂き、壊れて、ぴったり嵌っていた。もしサンゴがこのように幸いに穴を塞いでいなかったら船は沈没を免れなかったかも知れない (とパーキンソンは記録に残している)。 修繕と風待ちで更に遅れて一行が再び出発できたのは8月3日だった。船は完全に陸に揚げられていたので、船底最下部の検査はほんの僅かしかできなかったのだが、おそらく航行には支障無いように思われた。後に一行がバタヴィアに到着した際 (11月9日)、船底の板の何枚かは僅か3ミリメートルほどで繋がっているに過ぎないほど破損していたことが判り、「船底を見た者は我々はどうやって船を浮かべていたのかと皆驚いた」とクックは述べている (かと言ってエンデバー川でできたことはそれ以上はなかっただろう)。
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