イツハクラビンとは? わかりやすく解説

イツハク・ラビン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 05:28 UTC 版)

イツハク・ラビン
יצחק רבין
生年月日 (1922-03-01) 1922年3月1日
出生地 イギリス委任統治領パレスチナエルサレム
没年月日 (1995-11-04) 1995年11月4日(73歳没)
死没地 イスラエルテルアビブ
所属政党 労働党
配偶者 レア・ラビン
サイン

イスラエル国
第6代首相
内閣 第1次ラビン内閣
在任期間 1974年6月3日 - 1977年4月22日
大統領 エフライム・カツィール

内閣 第2次ラビン内閣
在任期間 1992年7月13日 - 1995年11月4日
大統領 ハイム・ヘルツォーグ
エゼル・ワイツマン

イスラエル国
第12代国防相
内閣 第1次ペレス内閣
シャミル内閣
在任期間 1984年9月13日 - 1990年3月15日
首相 シモン・ペレス
イツハク・シャミル

イスラエル国
第15代国防相
内閣 第2次ラビン内閣
在任期間 1992年7月13日 - 1995年11月4日
首相 イツハク・ラビン(兼任)
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所属組織 ハガナーパルマッハ
イスラエル国防軍
イスラエル陸軍
軍歴 1941年 – 1967年
最終階級 ラヴ・アルーフ
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1994年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:中東へ平和を築く努力に対して[1]

イツハク・ラビンヘブライ語: יִצְחָק רַבִּין [jitsˈχak ʁaˈbin],Yitzhak Rabin  発音[ヘルプ/ファイル], 1922年3月1日 - 1995年11月4日)は、イスラエル政治家軍人

参謀総長(第7代)。首相(第6・11代)、イスラエル労働党党首(第3・5代)を歴任。

人物・来歴

生い立ち

1922年3月1日イギリス委任統治領パレスチナエルサレムに生まれた。1歳の時、彼の一家はテルアビブに引っ越し、そこで育った。父親はロシアから移民してきた電気工であり、また英国からの独立を目指すグループ「ハガナー」のメンバーだった。彼はそんな民兵グループに属する父親の血を受け継いでいた。

1937年、2年制のカドリー農業高校に入学した。彼は多くの農業関連の科目で優れていたが、敵の言語である英語を勉強することを嫌った。彼は治水技術者を目指していたが、パレスチナ独立戦争が悪化すると軍事への関心を高めていった。そして、第二次世界大戦が始まると学校は閉鎖され、彼は独立に向けた動きを始めたハガナーの突撃隊に入隊し、軍人の道を歩み始めた。

軍歴

軍人時代のラビン(1948年)

陸軍士官学校卒業。1941年には、ユダヤ人民兵組織ハガナーの戦闘部門パルマッハに参加する。第一次中東戦争においては、エルサレム防衛英語版の指揮を取り、ヨルダン軍(アラブ軍団英語版)やアラブ聖戦軍英語版と交戦した。1962年には、イスラエル国防軍参謀総長となり、その指揮により第三次中東戦争(6日戦争)においては、エジプトヨルダンシリアに勝利した。

政界

和平合意に調印後握手をするラビンとアラファト(中央はビル・クリントン

イスラエル国防軍退役後は外交官となり、1968年から駐アメリカ合衆国特命全権大使を務めている。1973年にはイスラエル労働党より出馬し当選、イスラエル国会議員・労働大臣となる。

1974年に労働党党首となりゴルダ・メイアの跡を継いでイスラエルの首相となった。1976年に起こったエンテベ空港奇襲作戦は、ラビンの最初の任期で最も劇的な出来事であった。彼の命令で、IDFは、パレスチナ解放人民戦線のワディ・ハダド派と革命細胞(RZ)に所属する過激派に乗っ取られた旅客機の乗客を救助するために、長距離の覆面襲撃を行った。この作戦は一般的に大成功と見なされ、その壮大な性格により、多くの継続的なコメントと研究の対象となった。 1977年に首相を辞任。

ラビンは1984年から1990年まで国防相を務め、その間に体験したパレスチナ人の抵抗(第1次インティファーダ)に衝撃を受ける。

1992年に再度、首相に就任する。1993年7月25日ヒズボラがイスラエル北部にロケット弾を発射した後、ラビンはレバノンでの1週間にわたる軍事作戦を承認した。1993年にオスロ合意に調印し1994年にはヨルダンとの平和条約に調印した。ラビンのこの功績によりヤーセル・アラファトシモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞した。

オスロ合意の発表後、イスラエル国内では合意に反対する多くの抗議デモが行われた。これらの抗議が長引くにつれて、ラビンは、彼がクネセトに過半数を持っている限り、彼は抗議と抗議者を無視するだろうと主張した。

暗殺

ラビンの暗殺現場(イブン・ガビーロールストリート)
ラビンの墓

1995年11月4日テルアビブで催された平和集会に出席した際、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルから至近距離より銃撃され、死亡した。73歳没。 ラビンの暗殺は、イスラエル国民と世界の他の多くの人々に大きな衝撃を与えた。何十万人ものイスラエル国民が、ラビンの死を悼むために暗殺された広場に押し寄せた。特に若者は、記念のろうそくに火を灯し、平和の歌を歌いながら、たくさんの人が集まった。

11月6日に行われたラビンの葬儀には、アメリカのビル・クリントン大統領、オーストラリアのポール・キーティング首相、エジプトのホスニー・ムバーラク大統領、ヨルダンのフセイン国王など、世界の約80人の指導者が出席した。遺体はヘルツルの丘に埋葬された。 この暗殺により ユダヤ人民族間の和平への道は断絶され、その後イスラエル内の言論は右傾化の流れを強めることとなった。

脚注

出典

  1. ^ "The Nobel Peace Prize 1994" NobelPrize.org

関連項目

外部リンク

公職
先代
ゴルダ・メイア
メナヘム・ベギン
イスラエル国首相
第6代:1974 - 1977
第11代:1992 - 1995
次代
イツハク・シャミール
シモン・ペレス
党職
先代
ゴルダ・メイア
シモン・ペレス
労働党党首
第3代:1974 - 1977
第5代:1992 - 1995
次代
シモン・ペレス
シモン・ペレス
先代
ゴルダ・メイア
「同盟」代表
第4代:1974 - 1977
次代
シモン・ペレス
受賞
先代
コリン・パウエル
ロナルド・レーガン自由賞
1994
次代
フセイン1世
先代
ツビ・ツール
イスラエル国防軍参謀総長
1964年 - 1968年
次代
ハイム・バーレブ

イツハク・ラビン(1992-1995年の首相)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 07:38 UTC 版)

エルサレムの地位」の記事における「イツハク・ラビン(1992-1995年の首相)」の解説

オスロ合意では、エルサレム最終的な地位について交渉することが宣言されたが、イスラエルのイツハク・ラビン首相は「エルサレム分割することはない」と宣言した1995年、彼は学校の子供たちに「もし彼らが、平和のためにはイスラエル主権下にある統一されエルサレム諦めることが必要だと言うなら、私は『平和なしでやろう』と答えるだろう」と語った

※この「イツハク・ラビン(1992-1995年の首相)」の解説は、「エルサレムの地位」の解説の一部です。
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