イスラム世界とヨーロッパでの中世におけるサトウキビ
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「砂糖の歴史」の記事における「イスラム世界とヨーロッパでの中世におけるサトウキビ」の解説
古代ギリシア人と古代ローマ人が砂糖を知っていたという記録はあるが、食べ物ではなく輸入された薬としてだけの使用であった。例えば、1世紀にギリシャ人医師であるペダニウス・ディオスコリデスは、インドやイエメンあたりで「アシからとれる"sakcharon"」というものが「膀胱や腎臓の痛みを和らげるために服用される」と述べている。1世紀に古代ローマ人であるガイウス・プリニウス・セクンドゥスもまた砂糖を薬として描写している。 中世の間、アラブ人の起業家はインドから砂糖精製の技術を取り入れ、この産業を広げた。時として中世アラブ人は砂糖製粉機や砂糖精製機が取り付けられた大農園を作ることもあった。熱帯原産であるサトウキビには、成長のために水も熱も多く必要である。人工灌漑の使用により中世アラブ世界の至る所にサトウキビ耕作が広まった。サトウキビは最初、9世紀頃から始まり、シチリア首長国期として知られるようになるシチリア島がアラブの支配下にあった時代から中世南ヨーロッパで広範囲に育てられてるようになった。シチリア島に加えて、そのときアル=アンダルスとして知られていたスペインは砂糖生産の重要な中心地となった。砂糖はヨーロッパの至る所に輸出された。西洋の著作に砂糖消費に関する言及が増えることからして、輸入の量は中世末期にかけて増加したと考えられる。しかしサトウキビは費用のかかる輸入品のままであった。14~15世紀の1ポンドあたりの価格は、この時代にインド洋を超えて運ばれてきたメース(ナツメグ)、ショウガ、クローブ、コショウなどの熱帯アジアから輸入されたスパイスと同じくらい高かった。 クライブ・ポンティングは、10世紀までには、まずメソポタミア、そしてレバントや東部地中海にある島(特にキプロス)にサトウキビ栽培が導入されたことからその普及を調査した。ポンティングはまた、サトウキビが東アフリカ沿岸にも普及してザンジバルにまで到達したことについても言及している。 十字軍は聖地への出征後、ヨーロッパに砂糖を持ち帰った。12世紀の初めには、ヴェネツィアはティルスの近くの村をいくつか獲得し、ヨーロッパへの輸出品とするため砂糖を作る栽培地をもうけたが、ヨーロッパに存在する他の甘味料は蜂蜜だけで、砂糖はこれを補うようになった。十字軍の歴史を記録したギヨーム・ド・ティールは12世紀末に、砂糖を「最も貴重な製品であり、人が用い、健康を保つのに必須」だと書き記した。英語で最古の砂糖の記録は13世紀末頃のものである。 サトウキビ栽培は非常に労働集約的な産業であるため、ヨーロッパの砂糖生産者たちはしだいにアフリカから強制的に連れてきた人々による奴隷労働に依存するようになった。 1390年代により効率よくサトウキビの搾汁する機械が開発され、アンダルシアやアルガルヴェの砂糖プランテーションが拡大するようになった。こうした動きはもともとはマデイラ諸島で1455年に始まったものであり、シチリアからアドバイザーを迎え、製糖工場に投入する資本はおおむねジェノヴァから来ていた。マデイラ諸島はアクセスがしやすく、ヴェネツィアの独占を出し抜きたいと強く思っていたジェノヴァやフランドルの商人が引きつけられ、1490年代までにマデイラ諸島はキプロス島に優る砂糖生産を誇るようになった。バレンシアのあたりではカスティーリャ王国の砂糖プランテーションで、アフリカから連れてこられた奴隷が働かされていた。
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