アルバート公子との結婚と「共同統治」とは? わかりやすく解説

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アルバート公子との結婚と「共同統治」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「アルバート公子との結婚と「共同統治」」の解説

ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世(母ケント公妃の兄)の次男であるアルベルト英語名アルバート)がヴィクトリアの婿の最有力候補だった。この二人結婚エルンスト1世、母ケント公妃、ベルギー国王レオポルド1世ザクセン=コーブルク家をあげて推進していた。 ヴィクトリア1836年アルバート会ったことがあり、その時日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼美しい鼻と口。顔の表情魅力的だ同時に善良さ甘美さと知的さを持っている」と絶賛していた。 もっとも1839年4月ヴィクトリアメルバーン子爵に対して「私は当面いかなる結婚もしたくない」と語っている。アルバートのことは嫌いではなかったが、周囲勝手にアルバートとのお見合い進めているのが気に入らなかったという。だが結局周囲流される形で同年10月10日ウィンザー訪れたアルバート引見することになったこの頃アルバート身長こそ167センチ低めだが、顔は一層美男になっており、また高い教養をもっていた。ヴィクトリアはすっかり彼に一目ぼれした。引見翌日に彼女はメルバーン子爵に対して結婚対す意見変えた」と述べ、さらに翌々日には「アルバート結婚する意志固めた」と述べた後日再びアルバート召し君主である彼女の方からプロポーズ行なった。「貴方が私の(結婚の)望み叶えてくれたらどんなに幸せでしょうと言ってプロポーズしたという。 ヴィクトリアアルバート1840年2月10日セント・ジェームズ宮殿結婚式挙行した。その翌日レオポルド1世の手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せ人間はいないと思います。彼は天使ようです昨日披露宴楽しくて熱気あふれていましたロンドン市内では群衆果てしなく沿道続いていましたと書いている。 ヴィクトリアハードスケジュールのため、新婚旅行ウィンザーまでのわずか42kmで済まされた。アルバートがそれについて不満を述べるとヴィクトリアは「貴方は私が君主であることをお忘れなのね。今は議会会期中であり、私が行ねばならない執務も山のようにあります。ほんの2、3であっても私がロンドン離れることは許されないのです」と反論したという。 1840年6月ヴィクトリアアルバート馬車でコンスティテューション・ヒル(英語版)を通過中、見物人一人女王向けて発砲する事件発生した一発目は外れ続けて二発目が撃たれる直前アルバートヴィクトリア馬車のなかに引き倒して彼女を守ったアルバート行動新聞称賛されヴィクトリアアルバートが行くところ国民歳の声があがるようになった。 しかし、貴族社会社交界からはアルバートは「外国人」として疎まれていた。ヴィクトリア結婚初期にはアルバート政治の場に出てくることを望まず、公文書を見ることを許可しなかった。アルバート宛てた手紙の中でヴィクトリア彼に何の爵位与えない理由として「イングランドの民は外国人がこの国の政治参画することを嫌います。すでにいくつかの新聞は貴方が政治介入することに反対しています。自身は貴方にそんな考え微塵もない確信していますが、貴方が爵位得れば国民は声をそろえて連呼するでしょう。貴方が政治的役割果たそうとしていると」と書いている。だが、1840年11月生まれた長女ヴィクトリア1841年11月生まれた長男アルバート・エドワード筆頭1840年代ヴィクトリア出産繰り返したため、アルバート補佐役を務め必要性増した1842年頃からヴィクトリア公文書作成にあたってアルバート助力を得るようになり、また大臣引見の際にもアルバート同席させるようになった。これ以降イギリスヴィクトリアアルバート共同統治に近い状態と化したアルバートメルバーン子爵ホイッグ党肩入れするヴィクトリアに対して君主党派争い超越した存在にならなければならない」と諌め王権中立化努めたアルバート宮中での自身影響力増大にも努めた1842年にはヴィクトリア幼い頃からの側近であるレーツェンを宮廷から去らせた。さらに1844年にはピール首相反対押し切って二大政党綱引き雁字搦めになっていた王室管理機構改革にあたり宮内長官英語版)、家政長官英語版)、主馬頭(英語版)の分掌体制王室家政長官英語版)の下に一元化した。 1840年2月10日ヴィクトリアアルバート結婚式描いたジョージ・ハイター絵画 ウィンザー城アルバート公子とヴィクトリア女王夫妻長女ヴィッキー描いたエドウィン・ランドシーア絵画 1851年5月ヴィクトリアアルバート三男アーサー贈り物捧げるウェリントン公爵描いたフランツ・ヴィンターハルター絵画。『東方三博士の礼拝』を模している。

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