アユタヤ王朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 18:51 UTC 版)
アユタヤ王朝初期にはバラモン教(ヒンドゥー教)の影響を受けた王権思想が導入されラーチャサップというサンスクリット語やクメール語の借用語の多い言葉が王宮内で使われだした。一方パーリ語なども上座部仏教を通じて広まりを見せていた。そのためこれらの文学には、サンスクリット=パーリ語、クメール語由来の言葉などが多用されタイ文学を大いに豊かなものにした反面で、義務教育が十分に普及していなかった時代であったため、王族や高官による文学の独占という弊害も生んだ。 アユタヤ王朝初期の文学としてラーマーティボーディー1世のよる韻文、『オーンカーンチェーンナム』が挙げられる。これは官吏が王に忠誠を誓うときに唱えられる誓いの文章でバラモン教的儀式の色彩を色濃く残した作品である。トライローカナート王時代の作品に『リリット・ユワンパーイ』がある。これはトライローカナートがラーンナータイ討伐時における勝利を記念して描かれたものである。ラーマティボーディー1世の韻文およびリリット・ユワンパーイはどちらもバラモン教に基づいた王権の正当性を強調するものでこのような作品が非常に多く作られた。 一方で、トライローカナートの時代やソンタム王の時代に、タイ語で『マハーチャート』と称する本生経(釈迦の前世の物語)を題材とした作品も多く作られた。これはスコータイ王朝後期に導入されたタンマラーチャー(ダルマラージャ)の思想がアユタヤ王朝に入っても続いたため、その思想「王はブッダの生まれ変わりであり、仏教徒である」と言う概念に基づき、王権を強化するために書かれたものである。 一方『リリット・プラロー』という現在のプレー県の地元の伝承を元に、国王に捧げるために書かれた文学が現れた。これは、一人の王子と二人の女王の悲恋物語であり、王権思想・宗教思想と大きく結びついた作品とは少し趣を殊にするものである。これは後に欧米の文化が流入すると、「タイのロミオとジュリエット」と呼ばれ、古典文学の最高傑作の一つに祭り上げられた。 アユタヤ王朝後期、ナーラーイ王の時代には内政が安定し、フランスと使節がかわされるなど貿易が発展し、結果文学も発展を見せた。王室にはシープラートなどの詩人が仕官し。ナーラーイ自身も著作を行った。ナーラーイの携わった作品には本生経に取材した『サムッタコート・カムチャン』、『チンダマーニー』、『スアコー・カムチャン』などがある。シープラートはナーラーイに才能を認められながらもその行動の奔放さのため放浪の憂き目を見た詩人であるが、『マハーバーラタ』に取材した『アルニット・カムチャン』やナコーンシータンマラートへ流された時に歌った『シープラート・カムスワン』などがある。この時代の他の作家による作品に、プラ・シーマホーソットによる一般市民の生活を描いた『カープ・ホークローン』、フランスへの外交使節であったチャオプラヤー・コーサーパーンによる『コーサーパーンの日記』などがある。ナーラーイ王の死後は政情不安により一時文学は衰えるがボーロマコート王の時代にはタンマティベート親王(通称エビ王子)による『カープ・ヘールア』などがうまれ文学が一時的に発展した。 1767年のアユタヤ陥落ではビルマ・コンバウン王朝の破壊を受け、その文学作品が多数消失した。現在残っている作品でもこのために一部が欠けていたりしている。これはタイ文学史上、非常に大きな打撃であった。そのためトンブリー王朝以降、歴代の王達は急ピッチで失われた文学の整備を行うことになる。
※この「アユタヤ王朝時代」の解説は、「タイ文学」の解説の一部です。
「アユタヤ王朝時代」を含む「タイ文学」の記事については、「タイ文学」の概要を参照ください。
- アユタヤ王朝時代のページへのリンク