アユタヤ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:51 UTC 版)
アユタヤ王朝時代にも華人の商人が渡来していた。アユタヤは頻繁に朝貢を行っていた。また1405年から33年にかけての鄭和の遠征では、鄭和自身がタイを訪れた形跡はないが、部下の馬歓らがタイを訪れた記録が残っている。これらの結果、タイでは中国人が移り住み、子孫ができたと考えられている。 スコータイの没落にともないアユタヤが勢力を拡大すると、中国人の存在もアユタヤ・中国両国の文献に出てくるようになり、中国の文献にもタイで官吏となった中国人の存在が出てくる。また、パタニ王国では中国人官僚林道乾がイスラム君主のもと、権力を握りほとんど無税で貿易が行えた記録などもなども残っている。 一方、17世紀初頭から台頭し始めた日本人町の日本人勢力は、徐々に対外貿易額を伸ばし中国人商人の勢力を脅かした。しかし、1627年王位についたアユタヤ王プラーサートトーンは勢力の大きくなった日本人町を焼き討ちし、対外貿易を王室の専売特許とした。これは、実際の貿易業務は中国人に王室から委託されたことと、最大の貿易相手国であった日本は、鎖国後も中国船との貿易は認めていたことから、中国人にとってはプラスに作用した。 またナーラーイ王(1657 - 1688年)の時代、オランダと中国が互いにしのぎを削るようになると、オランダは1663年に中国人と一悶着を起こし、それがもとで、1664年オランダはアユタヤ政府に一方的に条約を迫るが失敗し、オランダはアユタヤにおける貿易から姿を消した。また、変わってフランス背力がタイでの貿易に手を出そうとするが、ナーラーイの死にともない、アユタヤ王朝は白人国家に対して鎖国を行った。結局これらは中国人の貿易商に大きく利益するものとなった。 さらに、1645年の清朝の華南征服は、中国人へのタイへの入植を促した。この傾向は18世紀頃まで続く。このため、清朝はタイとの交易を事実上禁止することもあった。しかし、雍正帝は朝貢貿易を認める政策に転換。タイは低額な関税で米を盛んに輸出した。 17世紀に福建系の華人がタイランド湾の利権を握ると、華南からの移民が増えた。タイ華人は華南からということになったのも、この時からである。中には官位を持つものがあり、華人であるトンブリー王朝のタークシン王もアユタヤー時代には、ターク県の知事をしていた。
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