アメリカにおける「アカデミー」の盛衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 09:22 UTC 版)
「ガバナーズ・アカデミー」の記事における「アメリカにおける「アカデミー」の盛衰」の解説
「アカデミーは19世紀に入ると急速にその数を増し、マサチューセッツでは、1800年に17校であったアカデミーが、1820年には、36校、50年には403校に増加した。アメリカ全土には、1830年におよそ950校の法人組織によるアカデミーがあり、50年にはその数6,035校に急増している。この外に法人組織でないアカデミーが多数あった。1847年、ニューヨーク州ニューヨーク市に設立された教育機関であるフリーアカデミー (The Free Academy of the City of New York) は、現在のニューヨーク市立大学シティカレッジの前身にあたる。 アカデミーの機能は、大学進学準備のための中等教育機関としての機能と、実生活に役立つ完成教育機関としての性格をもっていた。従って、アカデミーの教育課程は、きわめて多彩であるが、大体次にあげるような教科を教授している。それはラテン語、ギリシャ語、フランス語、書き方、読み方、算数、地理、話し方(Art of speaking)、幾何、論理学、哲学、簿記、航海術、測量、修辞学、天文学等であって、ブルベッカーはギリシャ語から近代語まで、聖書的古代からアメリカ史まで、重商主義の法典から教授原理まで、書き方から図画まで、物理学から化学まで、算数から三角法まで、とこれらの多岐多様なカリキュラムをもったアカデミーを、概括している。 アカデミーは、19世紀中葉までにその数が著しく増加し、教育内容も豊富になっているが、アカデミーの数的膨張の要因は、アメリカ産業革命の進展と無縁ではなかった。とくに、1812年戦争後開始されたいわゆる“交通戦争”------道路、運河、蒸気船の発達------によって、西部の発展は、著しい速度で進展しており、西部の農業地帯の拡大は、東部の製造業を刺激し、その結果、アメリカ全土の市場の発達を促し、アメリカ全体の産業活動の活発化をもたらしつつあった。広大な領土を有するミシシッピー河流域を掌中に収めたアメリカは、この大西部に急速に進出し、定住地を確保しつつ、更に新しい領土をもとめるアメリカ人の気分は、いわゆる”マニフェスト・デスティニー”の観念の高揚をたらした。このように著しく躍動的・流動的になったアメリカ社会の中で、活動していた中産階級が、アカデミーに実学を求め、またアカデミーがかれらの要求を満たすべく、その機能を果たしたといってよいであろう。」 「1821年から1865年にかけての時代は、二つの中等教育機関、すなわちアカデミーと公立ハイ・スクールに関する是非論の戦われた時代として特色づけられる。この二つの教育機関の趨勢は、1821年度に設立されたボストン英語古典学校(Boston English Classical School)――1824年にボストン・イングリッシュ・ハイ・スクールと改名――を嚆矢とする新しい中等教育機関、すなわちハイ・スクールの興隆と、アカデミーの衰退をもって幕を閉じた。1850年代から公立ハイ・スクールが急速に発展しアカデミーの立場は、はっきり逆転するのである。南北戦争(1861年~65年)終結後、アカデミーは、マサチューセッツにおけるハイ・スクールの最早強力な競争者の地位を失い、ニューイングランド全体を通じて、アカデミーはその姿を消し始めていった。ハイ・スクールの成因こそ、無償公立学校運動(free public school movement)の一環の勝利であった。」
※この「アメリカにおける「アカデミー」の盛衰」の解説は、「ガバナーズ・アカデミー」の解説の一部です。
「アメリカにおける「アカデミー」の盛衰」を含む「ガバナーズ・アカデミー」の記事については、「ガバナーズ・アカデミー」の概要を参照ください。
- アメリカにおける「アカデミー」の盛衰のページへのリンク